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七公主・固倫和静公主|モンゴルの王子と結婚した皇女は待遇に不満?

皇女 1.4 清の皇女(公主)

七公主・固倫和静公主は清朝の第6代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの第七皇女。

母は令妃・魏氏です。

「如懿傳」では愛新覚羅・璟妧 として登場します。

側室の娘ですが、皇后の娘と同じ称号を与えられ。モンゴルの王子と結婚しました。

でもなにかと不満の多い一生だったようです。

史実の 固倫和静公主 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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固倫和静公主 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1756年8月10日
  旧暦:乾隆20年7月15日
没年月日:1775年2月9日
享年:18

姓:愛新覚羅氏
称号:固倫和静公主(こりんわせいこうしゅ、グルンフージングンジュ)
父:乾隆帝(けんりゅうてい)
母:令妃・魏氏
夫:拉旺多爾濟(ラバンドルジ)

子供:なし

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1756年(乾隆21年)。圓明園の五福堂で生まれました。

父は乾隆帝。
母は令妃 魏氏

乾隆帝にとって七番目の娘なので「七公主」と呼ばれます。本名は不明。

生まれたその年にモンゴルの王子・ラワンドルジ(拉旺多爾濟、1754年生まれ)との婚約が決まりました。

ラワンドルジの父・チェングンザブ(成袞扎布亦)はモンゴル・ハルハ部の名門ボルジギト(博爾濟吉特)氏。かつての部族長にあたる旗長(ジャサク)の家柄です。

乾隆帝は満洲軍とモンゴル軍の連合軍でジューンガル帝国を滅ぼしました。そのときモンゴル・ハルハ部の軍団を率いていたのがチェングンザブ(成袞扎布亦)です。

乾隆帝はモンゴル・ハルハ部との同盟を強くするため、子供同士を婚約させました。明らかに政略結婚です。

額駙(エル=公主の婿)に決まったラワンドルジは北京に送られ王宮で育てられました。

父・チェングンザブ(成袞扎布亦)は北京に姨娘(妾か親族の女性)を送ってラワンドルジの世話をさせました。姨娘は頻繁に七公主の健康状態を確認しに訪れていました。七公主にウリャンカイ(満洲からシベリアに住んでいた狩猟民)産のミンクやキツネの毛皮も贈りました。

1764年(乾隆28年)。9歳の時。忻貴妃が難産で死去。七公主と八公主は喪服を着て葬儀に出席しました。

固倫公主になる

1770年(乾隆35年 正月)。七公主に「固倫和静公主」の称号が与えられました。清朝の伝統では「固倫公主(グルングンジュ=国の王女)」は皇后の娘にだけ与えられる称号です。

側室の娘は「和碩公主(ホショイグンジュ)」の称号が与えられるのが普通です。

朝鮮王朝だと王妃の娘が公主(コンジュ)、側室の娘は翁主(オンジュ)と呼ばれます。その違いと同じです。

清朝では皇后の娘が 固倫公主(グルングンジュ)。側室の娘が 和碩公主(ホショイグンジュ)です。

でも和静公主はモンゴル王子との結婚が決まっていたので、形だけ皇后(正妻)の娘にしたあるのです。

でも。和静公主の実際の待遇は「和碩公主」並でした。

清の皇族は国から生活費が支給されます。支給額は固倫公主と和碩公主では差があります。七公主は和碩公主と同じ生活費が支給されていました。

また、長女の和敬公主の屋敷は2万両使って新築しました。でも七公主の住居は北京郊外の西春園にあって、かつて大臣の高恒が住んでいた邸宅を改修しました。改修に使った費用は8千両でした。

待遇に差があります。称号だけ固倫公主にしているのです。

 

結婚後の暮らし

1770年(乾隆35年)。7月21日。固倫和静公主とラワンドルジの結婚式が行われました。結婚式で振る舞われた酒の量も固倫和敬公主のときよりも少ないものでした。

1771年(乾隆36年)。固倫和静公主とラワンドルジの母の葬儀に出席するためモンゴルに行きました。

最初の予定では正月に行く事になっていました。ハルハ(現在のモンゴル共和国東部)は寒さが厳しく、雪や風が強くなると逃げ場がなくなるので春を待って移動することにしたのです。

6月。ハルハから戻ってきました。その後、皇太后と一緒に避暑山荘に行きました。

8月。ラワンドルジの父・チェングンザブ(成袞扎布亦)が病死しました。ラワンドルジはハルハに向かいましたが、皇女はハルハには行かず皇太后と一緒に北京に戻ってきました。

乾隆帝は固倫和静公主をハルハに戻るように命令しました。

ところが固倫和静公主はハルハには行きません。北京で喪服を着て喪に服しました。

モンゴル王子と結婚した清朝の公主は何人かいます。そのほとんどが夫のいるモンゴルで暮らしました。

でも乾隆帝が溺愛していた固倫和敬公主はモンゴルでの生活を断って北京で暮らしました。固倫和静公主はその異母姉を見ていたので同じように北京で暮らそうと思ったのかもしれません。

乾隆35~36年にかけてラワンドルジの両親が相次いで死亡しましたがその間、葬儀やら遺産相続の手続きなどでラワンドルジはモンゴルで暮らしました。

でも固倫和静公主は北京で暮らしました。別居夫婦でした。

都会育ちの固倫和静公主にとって、モンゴルで暮らしたくなかったのかもしれません。

乾隆38年。乾隆帝の側室・豫妃 博爾濟吉特氏が死去。

固倫和静公主とラワンドルジが喪服を着て葬儀に出席しました。普通は固倫公主(皇后の娘)が側室の葬儀に喪服を着て出席することはありません。

固倫和静公主は「固倫」と呼ばれましたが、待遇は側室の娘のままだったのです。

乾隆40年(1775年)。固倫和静公主が死去。享年20。

葬儀の規模もやはり固倫公主の格式ではなく、和敬公主(側室の娘)扱いでした。

固倫和敬公主が乾隆帝から溺愛されていたのに比べると。同じ「固倫公主」の称号をもちながら、固倫和静公主は明らかに待遇に差をつけられています。

政略結婚のために形だけ「固倫公主=皇后の娘」になっているのです。

物心ついたときにはすでにモンゴル王子との結婚が決まっていました。固倫和静公主としては不満が多い一生だったかもしれません。

テレビドラマ

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
 役名:愛新覚羅·璟妧 七公主 演:金子琦

2019 金枝玉葉(瓔珞外伝)2019、中国
 役名:愛新覚羅·昭華 昭華公主  演:王鶴潤

 

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