景辞(けいじ)/景知晩(けいちばん)は中国ドラマ「両世歓~ふたつの魂、一途な想い~」の登場人物。
「両世歓」は架空の王朝が舞台なのですが。モデルになった国や人物があります。
ドラマに登場する「雍国」のモデルになったのは中国の五代十国時代に存在した「後梁」という国です。
だから
雍帝のモデルは後梁の皇帝・朱全忠(しゅ・ぜんちゅう)
鄴(ぎょう)王モデルは朱友珪(しゅ・ゆうけい)
慶(けい)王のモデルは朱友貞(しゅ・ゆうてい)です。
劇中には名前が変わっていますけれどモデルになった実在の人物がけっこういます。
とすると。物語で主役の景辞(けい・じ)/景知晩(けい・ちばん)にはモデルになった実在の人物があるのか気になりますよね。
もちろん、公式サイトにはモデルになった人は書いていません。そこで調べてみたので紹介します。
景辞(けい・じ)/景知晩(けい・ちばん)のモデルはいる?
残念ながら、「景辞」や「景知晩」というそのものズバリな名前の人物はいません。
「趙岩」や「長楽公主」はそのものズバリな名前の人がいるのに残念。
でも他の王族みたいにモデルになった似た境遇の人はいるかも知れませんよね。
景辞は「雍帝」の息子です。
母は景妃。昭州の出身です。
姓が母方の姓になっているのは中国ではありえない設定なのですが。
これはモデルになった人が「皇帝の息子ではない」という名残かもしれません。
とすると。
「雍帝」のモデルになった朱全忠には何人か息子がいます。
ドラマの「昭州」になったのは王鎔の趙国。
朱全忠の息子には趙国出身の母をもつ息子はいません。
朱全忠の実子からモデルになった人を探すのは無理みたいですね。
モデルは 鄴王=朱友珪を倒した人?
ドラマでは「雍帝」は息子の鄴王に殺されます。
権力を握った鄴王を景辞や趙岩、慶王たちが協力して倒します。
そして慶王が即位します。
ということは。
朱友珪を倒すために朱友貞と協力した人物の可能性が高いですね。
朱友貞を即位するために協力したのは
ドラマにも登場する趙岩、
袁象先、
将軍の楊師厚たち。
この中で楊師厚はベテランの将軍。ちょっと違いそうです。
ところが。袁象先は皇帝・朱全忠の甥です。
袁象先の母は朱全忠の妹。
だから袁象先の姓は王族と同じ「朱」ではなく「袁」。
皇帝の息子ではないとはいえ。袁象先は皇帝・朱全忠の甥です。
皇帝からも大切にされていましたし、それなりに影響力も持っていました。地方に行けば大きな顔ができます。
ドラマの景辞も雍帝は自分の息子と認めています。それなりに高貴な身分の人みたいな扱いは受けていますが。他の皇帝の息子たちに比べると扱いは低いですよね。ご落胤あつかいです。
それを考えると立場的には皇帝の実子ではないけれど、甥ということでそれなりに力をもっている袁象先と似ています。
立場的には袁象先がモデルといえそうですね。
袁象先とはいったいどんな人だったのでしょうか?
袁象先とは
名前:袁象先(えん・しょうせん)
生年:860年代?
没年:924年
父:袁敬初
母:朱氏(朱全忠の妹)
父の袁敬初は唐の役人。武人ではなく文官でした。
883年。叔父の朱全忠が宣武軍(唐の地方を守る軍隊)の司令に任命されると袁象先も軍人になりました。
順調にキャリアを重ね、895年には宣武軍の司令になりました。このころには叔父の朱全忠は朝廷の中央で大きな権力を持っています。
唐末期の混乱の中では、朱全忠の敵対勢力と戦い功績をあげています。
袁象先は父よりも叔父の朱全忠の影響を強く受けています。
後梁の時代
907年。朱全忠が皇帝になりました。
908年。袁象先は都に呼び戻されて護衛軍の将軍になりました。
909年。汝南県に領地を与えられました。
910年。梁の首都が開封(大梁)に遷都。宣武軍の司令部が宋州に移動になり、袁象先が任命されました。
911年。鄆州で飢饉が起こりました。袁象先は被災民を救うために軍の備蓄品を開放して民衆を救いました。
太祖・朱全忠は趙と義武軍を攻めました。袁象先は作戦に参加しましたが、失敗し都に呼び戻されました。
太祖・朱全忠の治世。国内では賄賂が横行していました。袁象先は皇帝の甥ということで多額の賄賂を受け取り、私服を肥やしていたようです。
叔父が殺され、王子たちと復讐
912年。太祖・朱全忠は息子の・朱友珪(しゅ・ゆうけい)に殺害されてしまいます。
朱友珪は後梁の2代皇帝になりました。朱友珪は太祖・朱全忠を殺したのは博王・朱友文だと言って処刑してしまいます。
でも多くの臣下たちは朱全忠を殺したのは朱友珪だと思いました。
袁象先はすぐに行動を起こしました。朱全忠の娘婿の趙石や将軍の楊師厚、そして王子の均王・朱友貞と接触して打倒・朱友珪のための話し合いをします。
913年。袁象先は宮殿に兵士を送り込み、朱友珪を包囲。朱友珪を自害に追い込みます。
袁象先と趙石は西都の洛陽も制圧。均王・朱友貞に玉璽を差し出し皇帝にしました。
袁象先は朱友貞を皇帝にした功績で西京内外諸軍馬步軍都指揮使、検校司徒、左龍虎統軍、濮陽郡開国侯となり、国が滅びるまで高い地位にありました。
後梁が滅亡、そのとき袁象先がとった行動は
923年。普王・李存勖が唐(後唐)を建国。後梁に攻めてきました。
ドラマ「梁世歓」の「紀国」は普・後唐がモデルです。
李存勖は後梁の首都・開封を攻め落とし皇帝の朱友貞は自害しました。後梁は滅亡しました。そのとき後梁の主力軍は都から離れた場所にいたので救援は間に合いませんでした。
都が陥落して皇帝が死亡したことを知った袁象先は開封に向かい、李存勖に服従を誓いました。李存勖と親しい人に賄賂を送り取り入りました。
袁象先は後唐の王族と同じ「李」の姓と「紹安」の名前をもらい「李紹安」と名乗りました。そして領地に戻りそのまま余生を過ごしました。
似ているのは立場だけ
皇帝を殺した朱友珪を倒すため。
王子の朱友貞や趙石たちと協力して朱友珪を倒し。
朱友貞を即位させたところはドラマの景辞と立場は重なるのですが。
史実の袁象先は皇帝の甥の立場を利用して私服を肥やしたり。後梁が滅亡するとまっさきに後唐皇帝に服従して賄賂を渡して保身をはかったり。
あんまりいい人のイメージはありません。
だから袁象先という名前は使わなかったのでしょう。
袁象先のポジションに「ヒロインの相手にふさわしい良い人がいたら」というのが両世歓の景辞のようです。
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