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秦嗣源のモデル 寇準とは?:贅婿

ぜいせい 2 ドラマ人物

中国ドラマ「贅婿(ぜいせい)ムコ殿は天才策士」の秦嗣源にはモデルになった人物がいます。

宋朝の寇準(こう・じゅん)です。

寇準は北宋を支えた優れた重臣でした。しかし朝廷内の争いによって地方に左遷されてしまいます。

ドラマの武朝は北宋をモデルにしています。

梁国のモデルが遼(契丹)
靖国のモデルが金です。

秦嗣源にはモデルになった寇準とはどのような人物だったのか紹介します。

 

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ドラマ「贅婿(ぜいせい)」の秦嗣源

武朝の右相

武朝の囲碁の名人。

朝廷の重臣でしたが、外交方針のち外から皇帝や他の重臣と意見があわず地方に飛ばされていました。

男徳学院の校長・康賢の知り合いで。秦嗣源が康賢と囲碁をうっているところに寧毅がやってきて。秦嗣源と寧毅は囲碁で対戦。

現代的な碁の打ち方をする寧毅の作戦が理解できず、秦嗣源は囲碁で負けてしまいます。その奇妙な打ち方に関心して寧毅にも興味をもちます。その後は寧毅と仲良くなり相談相手にもなりました。

北方の国の動きが慌ただしくなり、皇帝に呼ばれて朝廷に戻ります。外交方針では強硬派。右相に復帰して歳弊の中止と北伐を進言。黒色火薬と大砲の製造を進言して武力を整えました。そして靖国との争いが始まるのですが。

 

秦嗣源のモデル 寇準(こう・じゅん)とは?

寇準は961~1023年の間に生きた北宋の大臣。

かなり怖い人物だったらしく、寇準が段の上に立つと部下たちは震え上がったといいます。

宋 真宗の時代の1004年。同中書門下平章事(宰相)になりました。北宋は契丹国(梁)と戦争中。梁 聖宗と蕭太后が宋に攻めてきました。王欽若たち重臣は怖気づいて宋 真宗に避難を進言。ところが寇準は逆に宋 真宗が軍を率いて契丹軍を迎え撃つように進言しました。

寇準の説得で真宗は遠征を決めました。北宋軍は進軍している間に黄河の北側は契丹軍に占領されてしまいます。契丹軍と北宋軍は川を挟んで睨み合いになりました。結局、戦いは膠着状態になり真宗はやる気をなくして和平を考えます。契丹も補給が追いつかなくなっていたので和睦しました。

このとき寇準は領土奪回(燕雲十六州、もともと宋の領土ではありませんが)を主張し和睦に反対。最後まで契丹との戦争を主張しました。

宋真宗と梁聖宗・蕭太后の思惑が一致して「澶淵の盟」という条約が結ばれました。この条約で北宋は毎年貢ぎ物を契丹に送ることになりました。この貢ぎ物がドラマでも話題になっている歳弊(さいへい)です。

この戦いの後。主戦派の寇準と和平派の王欽若の仲は更に悪化。

1006年。王欽若は宋真宗に「寇準のやり方は博打と同じ、寇準のいうことを聞いていたら危ない」と言われ。もともと戦争はやる気はなかった宋真宗もそのとおりだなと思い。寇準は降格になってしまいました。

1008年に宰相に復帰。王欽若はもういません。真宗は病気で寝込んでいて朝廷で力を持っていたのが劉皇后でした。劉皇后は武則天と同じように政治に介入していました。

朝廷は皇太子派と劉皇后派に分かれていました。寇準は皇太子を支持、真宗に皇帝氏に皇帝の代行を指せるように進言。真宗はそれを認め、密かに皇太子に引き継ぎさせるように準備を始めました。

ところがその計画は事前にばれてしまい、劉皇后、丁謂、銭惟演たちによって寇準は左遷されてしまいます。

寇準はそのまま左遷先で死亡しました。享年63歳。

中国では「優れた大臣」とされています。

小説「楊家将演義」でも悪者を罰する「いい大臣」として登場します。

 

「贅婿(ぜいせい)」のモデルになっているのは北宋の徽宗の時代なので、実際にはその時代には寇準はいないのですが。架空王朝が舞台ということで北宋の様々な人物をアレンジしてドラマに登場させているようです。

北方の国への強硬な態度や中央での争いに負けて地方に左遷されているところは同じです。

ドラマの秦嗣源はかつて武軍を率いて梁軍と戦いましたが兵糧が尽きて敗退しました。賀太師が和平をまとめ歳弊することになったのですが。そのことが地方に左遷されたことと関係している様子。このエピソードも史実の 寇準が遼(契丹)との徹底抗戦を主張して皇帝の遠征を勧めたことが元になっています。

ドラマでは地方に左遷された後、また戻るところが違います。

 

・贅婿(ぜいせい)ドラマ登場人物紹介

 

・贅婿(ぜいせい)ドラマ全話リスト一覧

 

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