金瑬(キム・リュ)は李氏朝鮮の重臣。主に仁祖に仕えました。
光海君に対してクーデターを起こし、仁祖を王にした重臣の一人です。
ドラマではキム・ジャジョムにかくれあまり目立たない存在ですが、重臣の中でも中心的な立場にいました。
仁祖時代の政治はキム・リュが動かしていたと言ってもいいくらいです。
史実の金瑬(キム・リュ)はどんな人物だったのか紹介します。
金瑬(キム・リュ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1574年
没年月日:1648年3月5日
名前:金瑬(キム・リュ)
称号:
父:金汝岉(キム・ヨムル)
母:咸陽朴氏
妻:晉州柳氏
子供:金慶徵(キム・ギョジン)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に15代光海君~16代仁祖の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1574年。役人の金汝岉の長男として生まれました。
金汝岉は壬辰戦争(朝鮮出兵)のとき、彈琴臺の副官として戦って戦死しました。その功績で死後、領議政に追贈されました。
金瑬(キム・リュ)は殉職者の息子ということで役人に取り立てられました。
翌年には母も亡くしました。
1596年。科挙の文科に合格。
光海君の時代
1620年。仁穆王后の廃位に反対しました。大北派によって追放されます。
武将の申景禛(シン・ギョンジン)とともにクーデターの計画をたてはじめます。
李貴(イ・グィ)、李适(イ・グァル)、金自點(キム・ジャジョム)らも計画に加わりました。
仁祖反正
1623年。李貴(イ・グィ)、李适(イ・グァル)とともに綾陽君(ヌンヤングン)を担いで反乱を起こしました。
キム・リュは反乱軍の大将になるはずでした。ところが事前に情報が漏れてしまったため、自分は無関係だとみせかけるため自宅で謹慎。最初は反乱軍には加わりませんでした。
李适(イ・グァル)、金自點(キム・ジャジョム)も最初は挙兵しませんでした。
イ・グァルが代わりに大将を務め挙兵すると、キム・リュたちは合流して王宮に突入しました。
光海君を追放。綾陽君を王にしました。
この功績で1等功臣になりました。
兵曹参判になったあと、大提学(従ニ品)の官職につきました。
キム・リュたち西人派の政治
仁祖反正あとの政治はキム・リュが中心となって行いまいました。
反乱を起こした後には反発を持つもの、不満を持つものが必ずいます。それを抑えるため、キム・リュは兵曹判書と義禁府を兼務して仁祖反正後に起こる混乱を乗り切りました。
しかしキム・リュたち西人派重臣は光海君を支えていた北人派ほど国際情勢に詳しくありませんでした。
女真族を野蛮な民族だと決めつけ、明に忠誠を誓う立場を取り続けます。この考えが後に丁卯胡乱、丙子胡乱につながります。
イ・グィ、チェ・ミョンギルら現実的な外交を主張する西人派もいましたが少数派でした。
西人派にはこれといった方針がないまま光海君と北人派が進めてきた政策の否定ばかり行いました。
政権が変わると前政権の行ったことを否定するのは現代の韓国まで続く朝鮮の政治の特徴です。
イ・グァルの反乱
1624年。イ・グァルが反乱を起こしました。
仁祖反正では中心的な働きをしたのに、見返りが少ないことに不満を持って反乱を起こしたのです。
キム・リュは礼曹判書、兵曹判書を兼務して、仁祖を公州に避難させました。
このとき、刑務所には49人の政治犯がいました。彼らがイ・グァルに味方して王に歯向かうと考え、1晩の間に49人の政治犯を処刑しました。
丁卯胡乱(後金との戦い)
1627年。丁卯胡乱では仁祖を補佐して江華島に避難しました。
その後、右議政、左議政を経て領議政になりました。
1634年。仁祖はキム・リュ、イ・グィを呼んで酒宴を開きました。宴が進むと仁祖は、昭顯世子と大君にむかって「彼ら(キムリュ、イ・グィ)を父兄のように思わなければいけない」と話しました。そのくらい仁祖から頼りにされていました。
丙子胡乱(清との戦い)
1636年。丙子胡乱が起きると、仁祖はキム・リュを呼んでアドバイスを求めました。
キム・リュは丁卯胡乱のときと同じように江華島に避難しようと考えましたが、清の進撃速度が早く南漢山城に立てこもることになりました。
1636年12月。キム・リュは南漢山城北門で清軍と戦い敗退します。
その後、清の皇帝ホンタイジが到着してますます不利になりました。
キム・リュは和平を考えます。
1637年1月9日。キム・リュはチェ・ミョンギルとともに清に国書を送ることを提案しました。強硬派のキム・サンホンは反対しましたが、仁祖は国書を送ることを認めます。
チェ・ミョンギルが国書を作成して仁祖の許可をとったあと、清に送りました。
清は国王が城の外に出て清の命令を受け取るように要求しますが仁祖は拒否したため、その後も戦闘がつづきました。
しかし準備不足のまま南漢山城に立てこもったため兵糧が底をつき始めます。
それでも清の攻撃は続きます。
鳳林大君が避難していた江華島で朝鮮軍が敗退し王族が捕虜になったという報告が届きます。
仁祖は戦意喪失。
1637年1月30。仁祖は三田渡でホンタイジに降伏しました。
その後、漢陽(ソウル)に戻ってきましたが、息子の金慶徵(キム・ギョンジン)が江華島の守りに失敗した責任を取らされて毒薬を飲み死亡しました。
キム・リュ自身も重臣たちから責任を追求されました。宮廷から追放されて郷里に戻りました。
しかし仁祖は「南漢山城を守りきれたのはキム・リュのおかげ」だとして、翌年キム・リュを呼びもどしました。
キム・リュたち西人派重臣は清を見下していたため、清との戦いでは対策が遅れ常に劣勢のまま降伏してしまいます。
キム・リュは比較的早くから和平を考えていました。しかし強硬派の反対にあい実現できませんでした。もちろん清相手に対等な和平などありません。中途半端に逆らった結果、屈辱的な服従を強いられるはめになります。
晩年
1644年。沈器遠(シム・ギウォン)が謀反を企んでいるという疑いがでてこれを迅速に処理しました(沈器遠の謀反の噂はキム・ジャジョムの策略だといわれます)。
この功績が仁祖に認められ。再び領議政になりました。
西人派は分裂。貴人チョ氏と結託し、仁祖の外戚となったキム・ジャジョムの勢力が優勢になります。
そのような派閥争いの最中。
1645年5月。昭顕世子が死亡。
1646年4月。嬪宮姜氏の処分が行われました。
キム・リュは嬪宮姜氏の処分に反対しました。しかし、仁祖の怒りをかって領議政を辞職しました。
1648年。死亡。享年74。
意外なつながり
キム・リュは学者としても高名でした。北渚集という文集を出版したり。弟子を育てました。弟子の一人が華政にも登場するホン・ジュオンです。ドラマではまったく関わりがありませんが、実は師弟関係なんですね。
まとめ
儒教的な理屈を重視する西人派勢力の中でも中心的な地位にいたのがキム・リュでした。明との主従関係に執着するあまり、清との外交では判断を誤って屈辱的な服従を強いられます。
その一方で、仁穆王后の廃位や嬪宮姜氏の処刑には反対し、王が一線を超えてしまったときには王であっても苦言をいいました。結果的にそれがキム・リュの政治生命を縮めることになるのですが。
良くも悪くも儒教的な秩序を守ろうとしたのがキム・リュなのです。
テレビドラマ
宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 演:キム・ソンウォン
王の女 SBS、2003年 演:キム・ジノ
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC、2013年 演:キム・ジョンギョル
華政 MBC 2015年 演:パク・ジュンギュ
コメント