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元神と魂魄。中国道教・儒教の魂とは

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中国のテレビドラマや映画・小説・マンガ・アニメなどには魂魄(こんぱく)や元神(げんしん)といった単語が出てきます。

魂魄はなんとなく魂(たましい)のことだと思えますが。元神はさっぱりわからないと思います。神様か何かでしょうか?違います。元神は神(かみ)ではありません。これも魂や意識のことなのです。

魂魄や元神は道教の考え方です。

中国は道教・仏教・儒教の様々な価値観が混ざっています。とくにドラマや小説など創作作品の題材になりやすいのが道教的な演出です。

仏教は日本人にも馴染み深いですが、道教や儒教の魂といわれてもわかりません。

この記事では中国作品に大きな影響を与えている道教の魂と、やはり中国や朝鮮半島の人々に影響を与えている儒教の魂について紹介します。

それを知っているとドラマの演出や文化の違いがもっと理解できますよ。

 

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魂魄(こんぱく)

中国に仏教が伝わる前。中国には魂魄(こんぱく)という考え方がありました。今もあります。

魂(こん)は 心の気(陽)。
魄(はく)は 肉体の気(陰)。

心の気の魂と肉体の気の魄をあわせて魂魄といいます。人間が生きてるときは魂魄が一体になります。人が死ぬと魂と魄が分離します。

人は死んだら魂が天に登り神(しん)になり。魄は大地にとどまり鬼(き)になります。

魂魄に輪廻転生はありません。もともと中国には転生の考え方はありません。

そこにインドから仏教が伝わり、魂が輪廻転生・仏性・業の影響をうけて元神・識神の考え方が誕生しました。

 

キョンシーは魄で動く肉体

ちなみに魂がなく魄だけで動いている肉体が殭屍(キョンシー)です。

香港映画の影響でキョンシー=中国版ゾンビと思ってる人が多いと思います。殭屍には魂がなく、魄のみ。道士の命令で本能的に動いているだけです。

ゾンビと殭屍は似てますが微妙に違います。

 

日本語の魂魄と中国語の魂魄は意味が違う

日本にも「魂魄」の言葉は伝わりましたが中身が理解されることはありませんでした。

日本で魂魄(こんぱく)といえば単純に魂(たましい)と同じ意味。または死者の魂のことをいいます。普通に魂(たましい)と言えるところを意識高い系の人たちが熟語の「魂魄」を使ってることがほとんどです。

 

元神(げんしん)

仏教伝来後。それまであった老子の思想、神仙思想、精霊信仰や漠然とした民間信仰に仏教の影響を受けて誕生したのが道教です。

 

元神=自分の意志

道教では魂の中でも人間が生まれながらに持っている部分(先天的なもの)を元神。生後身につけた考え方や知識から形作られる部分(後天的なもの)を識神といいます。

元神は人間の中でも「本当の私・自分の意思」を作る大事な部分。元神がないとたとえ肉体が生きていても抜け殻になります。

道教では修行を積めば元神は肉体を出て天と地を行き来できる。つまり意識だけを肉体から切り離すことができるとされます。

ただし普通の経験では元神は変えられないので元神を鍛えるためには道教の特別な修行法が必要です。

元神は不滅で転生を繰り返すといいます。もともと中国には輪廻転生がありませんでしたが、仏教の影響で中国でも輪廻転生が広まりました。

 

仏教の影響を受けて誕生した元神

仏教の「仏性」にあたるものが元神です。仏教では人間一人一人に仏性があり、それに気づいて努力すれば仏(真理に目覚めた人=ブッダ)になれるといいます。ブッダになれば輪廻転生の輪から出ることができますが容易ではありません。

仏性と元神は全く同じではありません。でも元神の誕生にはかなり強く仏教の影響を受けています。

業(カルマ)の影響を受ける部分が識神です。識神のおかげで人は輪廻転生を繰り返すと考える道教の人もいます。

元神・識神はもともと道教の精神修行の中で生まれた考え方でした。やがてオカルト的なものへと変化。人の外に出たり入ったりする霊魂みたいな扱いになります。

中国の小説・マンガ・ドラマなどメディア作品ではファンタジー的なものとして表現されることが多いです。

 

儒教の魂

儒教には転生も死者の世界もない

儒教では

人の魂は死んだら飛び散ってしまう。
しかし子孫が祭祀を行うと飛び散った魂の気が集まってその時だけ祖先の魂が存在する。
集まった祖先の魂は子孫の祭祀を受ける。
祭祀が終わると飛び散ってしまう。
魂は転生しない。

と考えます。

「魂は転生しない」というのは仏教に対抗してわざわざ言い出したこと。もともと中国には転生の発想がありません。転生もありません。

普段は祖先の魂は存在していない。子孫が祀るときだけ気が集まって出現する。という何ともよくわからない理屈です。

 

孝が必要なのは祖先の気を受け継ぐため

中国では「気」を使った説明が多いです。気がないと人は生きていけません。儒教でも「気」が重要。親の魂の気は子供にも受け継がれます。

でも子の魂は親の気の一部しか受け継いでいないので、子の気は弱いので親を敬い・祖先の祭祀を行わないといけません。そうしないと気が補充できないのです。

世代を重ねるとだんだん受け継いだ気が小さくなります。そのため子孫は祭祀を行なわないといけません。

とにかく祭祀を行うと祖先から気の補充がうけられるのです。

中国や朝鮮のドラマでは霊廟に祖先の位牌を置いてお祈りしていますよね。あれは仏教的な供養ではありません。気を分けてもらうための儀式です。(ただし中国でも仏教徒は位牌を使って供養します)

祖先が偉いのは気をたくさん持っているから。
同じ理由で親が子よりも偉いのは祖先から受け継いだ気が多いから。

だから「孝」が大切。

「孝」や「年長者が偉い」「上の世代が偉い」というのはそんな理屈があるのです。

それを「情」と結びつけ道徳に応用したのが孔子。身分制度作りに応用したのが孟子や後の儒学者たちです。

儒教が広まると祖先や親の祭祀をしている人は「孝行者だ」と評判が上がります。すると祭祀の本来の意味を理解せずに社会的に認めてもらうために形だけ行う人が増え。儒教は人が人を支配するものや処世術になっていきます。

 

儒教と魂の穢れ(汚れ)

儒教では一度罪人になったらその魂の気は永遠に罪に穢(けが)れたまま。だから墓を暴いたり遺体を破壊したりします。

祖先の魂の気は子孫にも受け継がれます。祖先の魂が穢れていたら子孫も穢れていると考えます。そのため大昔の祖先の罪を子孫に追求。儒教社会の歴史問題は永遠に解決しません。過去の失敗を引きずり出して相手を攻撃するのも止まりません。

これは宗教・価値観の問題なので客観的な事実に基づく理解や「話せば分かる」は通じません。

日本の神道の穢れは祓ったり水で洗い流せば落ちます。

でも儒教の穢れは魂が汚れているので何をしても落ちないと考えます。だから差別がずっと続きます。

心理的には西洋の魔女狩りに似ています。

魂の気が汚れている=悪魔に魂を売った。という感覚です。

 

道教・儒教・仏教が混ざったのが中国の考え方

 

道教は庶民に多く受け継がれ。儒教は特権階級や知識人に多く受け継がれました。もちろん身分に関係なく道教を信じる王侯貴族はいますし儒教の一部は庶民にも広まっています。

中国の王朝ものや日常生活を描いたドラマでは儒教的な価値観が多くでていますし。道教は魔術、オカルトな要素が多いのでファンタジー、武侠ものとは相性がいいです。

もちろん仏教の影響もあります。でも日本と違うなと思う部分は儒教や道教の影響をうけている部分が多いのです。

 

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