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庫狄瑠璃(こてきるり)のモデル・華陽夫人 庫狄(こてき)氏

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

中国ドラマ「風起花抄(ふうきかしょう)」のヒロイン・庫狄瑠璃(こてき るり)にはモデルになった人がいます。

それは華陽(かよう)夫人 庫狄(こてき)氏。

唐時代に実在した人物です。

華陽夫人は武則天に仕えた女官でした。

武則天からは非常に信頼されていた人だったようです。

史実の庫狄(こてき)氏はどんな人物だったのか紹介します。

 

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庫狄氏 の史実

プロフィール

生年月日:不明
没年月日:717年

姓 :庫狄(こてき)氏
名称:不明

国:唐
地位:女官
称号:華陽郡夫人、普国太夫人

父:不明
母:不明
夫:裴行倹(はい・こうけん)

子供:裴光庭(はい・こうてい)

彼女は唐の武則天時代の女官です

日本では飛鳥~奈良時代になります。

庫狄氏とは

華陽夫人  庫狄(こてき)氏の生まれた年はわかりません。

華陽夫人 庫狄氏の両親は誰なのかわかりません。

庫狄氏は鮮卑

庫狄(こてき)という変わった姓は鮮卑(せんぴ)姓。

鮮卑(せんぴ)とはかつてモンゴル高原で暮らしていた東胡という騎馬遊牧民族。匈奴に追われて大興安嶺にある鮮卑山に移り住んだので鮮卑といいます。三国時代以降、中原に移民して中華王朝の支配者になりました。

中国で仏教文化を発展させた北魏。北魏が分裂した東魏・西魏。そこから誕生した北斉・北周の支配階級は鮮卑です。他にもいくつかの国を作っています。

北周で下剋上して隋を建国した楊堅(よう・けん)、唐を建国した李淵(り・えん)も鮮卑の血をうけついでいるといわれます。

だから唐には「祖先が鮮卑」という人がかなりいます。鮮卑の中には楊・李・元・万・慕のようにすっかり漢人化して漢姓を名乗っている人もいますが。慕容・宇文・長孫・尉遲のように鮮卑姓を名乗り続けている人たちもいます。

庫狄(こてき)氏は鮮卑姓を名乗り続けている一族のひとつです。

庫狄氏は宇文、長孫のように歴史上有名な人はいません。華陽夫人が一番有名といってもいいくらい。庫狄氏は鮮卑の貴族ではなく下級貴族か庶民クラスの人達だったのかもしれません。

華陽夫人 庫狄氏 とは

華陽夫人の記録もあまりありません。

時期はわかりませんが、唐の将軍・裴行倹(はい・こうけん)の妻になりました。

裴行倹は唐の貴族。「河東裴氏」という大きな一族の中で「中眷裴氏」という家系の出身です。中眷裴氏には遣隋使の小野妹子に同行して隋 煬帝の使者として日本にやってきた裴世清(はい・せいせい)がいます。

裴行倹には二人の妻がいました。最初の妻・陸氏の死亡後に結婚したのが 華陽夫人です。

裴行倹は武則天が皇后になるのに反対して地方に左遷された人です。でもとばされた先の西域で活躍。最後は長安に戻って余生を全うしました。

なので華陽夫人も西域で暮らしていた可能性はありますね。

年の差結婚だった

高宗の時代。676年に裴光庭(はい・こうてい)を出産。

682年。夫の裴行倹(はい・こうけん)が死亡。このとき裴行倹は63歳でした。

裴光庭は裴行倹が57歳のときに生まれた子供になります。裴行倹には4男2女がいました。裴光庭は末っ子です。

さすがに華陽夫人が50代で出産ということはないでしょうから。裴行倹と華陽夫人は年の差結婚だった可能性が高いです。

武則天に仕える女官になる

幼い子どもを残して夫に先立たれた華陽夫人ですが。女官になって武則天に仕えました。

しかも武則天からは大変厚遇された。と記録にあります。

具体的にどのようなことをしていたのかはわかりません。武則天のそばに仕えていたのではないでしょうか。

夫が死んだからといっていきなり武則天に仕えるのも難しいはずですから。裴行倹と結婚する前には宮廷で女官として仕えていたのでしょう。若いころの武則天につかえていたのでしょうね。そこで信頼を得て、結婚して引退。

夫が死んだのでまた宮廷に戻ってきたのでしょう。その頃には武則天は皇帝になっていました。皇帝の側近として日常的な生活の面倒を見ていたのかもしれませんね。

夫の裴行倹は武則天が皇后になるのに反対して左遷されました。だからといって妻になった華陽夫人を嫌ったりはしてないようです。

華陽夫人が武則天の信頼を得たおかげで息子の裴光庭は武則天の一族の娘(武三思の娘)と結婚しています。

武則天の晩年。武則天は病で寝込むようになりました。このときは華陽夫人たちが看病したのでしょうね。

705年。宰相の張柬之が反乱を起こして武則天を退位させ、皇太子の李顕を皇帝(中宗)にしました。このときの粛清は評判の悪かった側近に限られたので華陽夫人に処分はありません。

でも華陽夫人は武則天が皇帝を退くと女官を引退。家で余生をすごしました。

華陽夫人は武則天とのつながりが大きい人だったようです。

息子はそのまま朝廷で働いて最終的には従二品の役職についています。

717年。死去。

宮廷人としての華陽夫人は武則天ともにあった人生だったかもしれません。

 

華陽夫人は最初は「華陽郡夫人」の称号が与えられ、その後「晋国太夫人」の称号が与えられました。

一般には「華陽夫人」の呼び名で知られます。

 

夫婦ではなかった?

歴史上の謎とされているのは裴行倹と華陽夫人は同じ墓には入っていないこと。当時の中国の習慣では夫婦は同じ墓に入る事が多いです。

でも同じ墓に入っていないということは。夫婦ではなかったという人もいます。

しかも年の差がありすぎる。というので若くして死亡した裴行倹の最初の息子の妻だったという説もあります。もちろん裏付けになる根拠はありません。ただの想像です。

事実がどうなのかは謎です。

 

テレビドラマ

風起花抄 2021年、中国 演:古力娜扎(グーリー・ナーザー) 役名:庫狄琉璃(こてき るり)

 

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