孝敬憲皇后は清朝の第5皇帝・雍正帝の正室。
もともと雍正帝の在位期間は短いです。
しかも孝敬憲皇后の在位期間はさらに短いので歴史上もドラマでもあまり目立ちません。
「花散る宮廷の女たち」では 烏拉那拉·凝秀
「如懿傳」では烏拉那拉·宜修の名前で登場します。
史実の 孝敬憲皇后 はどんな人物だったのか紹介します。
孝敬憲皇后 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1679年5月13日
没年月日:1731年10月29日
姓:烏喇那拉(ウラナラ)氏
名:不明
称号:孝敬憲皇后(こうけいけんこうごう)
地位: 皇后
父:フィヤング(費揚古)
母:ドロイゲゲ(多羅格格)愛新覚羅氏
夫:雍正帝(ようせいてい)
子供:弘暉(端親王)
清王朝の第5代皇帝・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
おいたち
1681年6月28日(康熙20年)。生まれました。
満洲正黄旗人。
父は領侍衛內大臣を努めたフィヤング(費揚古)。ホンタイジのもとで手柄を立てた軍人でした。
母はドロイゲゲ(多羅格格)。覚羅氏の出身で、ヌルハチのひ孫になります。
1691年(康熙30年) 11歳のとき。康熙帝の4男・胤禛と結婚しました。
1697年(康熙36年) 長男・弘暉が生まれました。
1704年(康熙43年) 弘暉が死亡。8歳でした。
雍正帝が即位して皇后になる
1723年(雍正元年) 夫の胤禛が皇帝に即位しました。烏喇那拉氏は皇后になりました。でも康熙帝の喪の期間なので盛大な式典は行われませんでした。
既に故人になっている父フィヤング(費揚古)に「一等承恩公」の称号が与えられました。
同じように既に故人になっている母・愛新覚羅氏に多羅格格(ドロイゲゲ)の称号が与えられました。
1725年(雍正元年)。康煕帝の3年の喪があけたので皇后の任命式が行われました。皇子や大臣たちが皇后に祝辞を述べました。
1727年(雍正5年)。吴謙は問題を起こしていた人物でしたが、役人の劉聲芳が「行いには問題はあるものの医術の腕は確かです」と進言したので雍正帝はその言葉を信じて恩赦を与えし宮廷の医師として働かせました。それだけなら皇后と関係ないように思えるかもしれません。
1728年(雍正6年)。皇后 烏喇那拉氏は風邪のような病になりました。医師の吴謙に治療させましたが良くなりません。
雍正帝が皇后 烏喇那拉氏の病気について吴謙に質問しても満足の行く答えができません。雍正帝は怒りました。
雍正帝は内務府に命じて吴謙をとらえさせ法務部で裁判にかけました。
その結果。一審では死刑になりましたが、二審で執行猶予がついて最終的には一生刑務所の受刑者の治療を行うことになりました。
その後、皇后 烏喇那拉氏の病気は一時良くなりましたが完治しませんでした。
1731年(雍正9年)。死去。享年51。
テレビドラマ
宮廷の諍い女
2012、中国
役名:烏拉那拉·宜修 演:蔡少芬
ドラマ後半のボスキャラ
如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~
2018、中国
役名:烏拉那拉·宜修 演:陳沖
「宮廷の諍い女」の続編。
物語序盤で登場。ヒロイン烏拉那拉・如懿の叔母 という設定。鈕祜祿氏の陰謀で死亡。死の前に姪の如懿に烏拉那拉一族の名誉回復と言い残しました。如懿が皇后を目指すきっかけを作ります。
花散る宮廷の女たち 〜愛と裏切りの生涯〜
2017、中国
役名:烏拉那拉·凝秀 演:覃煒
ウラナラ氏は第四皇子 胤禛と結婚。胤禛と親しそうにする年姝媛が気になりますが優しく接します。物語のラストでは寺参りを装って年姝媛を逃しました。
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