PR

如懿を裏切った阿箬のモデル・慎嬪は オイラト出身の乾隆帝の側室

大清 1 清・金

 

しんは清朝の第代皇帝・乾隆帝けんりゅうていの側室。

清朝は中国史上でもとくに国際性豊かな王朝でした。後宮の人々の出身部族も様々です。

慎嬪はオイラト系遊牧民の達什達瓦(ダシュダワ)部出身という異色の経歴の持ち主です。

ダシュダワ族は現在ではほとんど残っていない少数民族。このような人も清の後宮にはいました。

「瓔珞<エイラク>」には登場しません。 
「如懿傳」では 慎嬪 索綽倫(ソチョロ)·阿箬(あじゃく)として登場します。

史実の慎嬪はどんな人物だったのか紹介します。

 

PR

慎嬪 の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:1765年

姓:拜爾葛斯
称号:慎嬪
地位: 
父:徳穆齊塞音察克(デムジセインツァク)
母:不明
夫:乾隆帝(けんりゅうてい)

子供:なし

清王朝の第6代皇帝・乾隆帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

慎嬪の出身部族ダシュダワとは

オイラトのダシュダワ(達什達瓦)部出身。

オイラトはモンゴル高原で暮らす遊牧民族です。

日本人は中国人・モンゴル人と単純に考えてしまいますが。実際には様々な民族がいました。

かつてオイラトはチンギス・ハンと一緒にモンゴル帝国を造りました。元朝滅亡後はモンゴルから独立。一時はモンゴル高原を支配するほど勢力がありました。

エセンの死後、オイラトは衰退。モンゴルとの争いに負けて西に逃れました。やがて一部族だったジュンガルがオイラトを統一。現在の新疆ウイグル自治区あたりを中心に帝国をつくりました。

清・ジュンガル戦争で部族が清に亡命

1755年(乾隆20年)ごろ。ジュンガル帝国で王位争いが起こり、次々と清に寝返る者が出ました。その中にダシュダワ部の人たちもいました。

ダシュダワはイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北部)で暮らすオイラト系遊牧民でした。ジュンガル帝国の一員でしたが、内乱を避けて東に移住しました。

拜爾葛斯氏と家族もこのとき移住したようです。

清とジュンガルは長年敵対していました。そこで乾隆帝はジュンガルの内部争いにつけこんで軍を派遣しました。清に従うモンゴル部族も兵を派遣しました。清・モンゴル連合軍はジュンガル帝国を壊滅させました。ダシュダワも清に協力してジュンガルと戦いました。

その後、ダシュダワは熱河(現在の中国河北省 承徳市)へ移住。

乾隆帝は熱河に1000戸の住居を用意。仏教を信仰していたダシュダワのために武烈川の東岸に安遠寺を建設しました。

その後もダシュダワ族は清朝に仕えました。中華民国に弾圧され現在は250人ほどしか残っていないそうです。歴史でもほとんど出てこない少数民族です。

 

慎嬪

慎嬪の誕生年はわかりません。
誕生日は4月11日です。

いつ入宮したのかはわかりません。ダシュダワ部が移住を始めた1755年から1759年の間でしょう。

1759年(乾隆24年)。伊貴人になりました。

このときすでに皇后は孝賢純皇后・富察氏から継皇后・輝発那拉氏に変わっていました。

皇后輝発那拉氏のもとで後宮のしきたりを習いました。

1760年(乾隆25年)。伊貴人を慎嬪に昇格させることが決まりました。

1761年(乾隆26年)。慎嬪のために黒狐の皮で作った冠が新調されました。

1762年(乾隆27年)。皇后の暮らす翊坤宮で慎嬪の任命式が行われました。慎嬪は豪華な衣装を着て皇后輝発那拉氏の目の前で六拜三跪三叩禮しました。

皇后輝発那拉氏の教えをよく守った慎嬪は乾隆帝の評判もよく「妃嬪達が模範にすべき優雅さだ」と称賛しました。慎嬪と皇后那拉氏は親しかったようです。

1765年(乾隆30年)。慎嬪は病気になりました。乾隆帝は熱河からオイラトの医師を呼び寄せ慎嬪を看病させました。また熱河にいた慎嬪の弟を北京に呼び寄せました。

1765年(乾隆30年)6月。慎嬪は病死しました。

慎嬪は皇后輝発那拉氏と近い関係だったことはわかりますが。それなりに高い地位を与えられ、豪華な衣装が与えられていた事がわかります。でも皇帝とのエピソードはほとんど記録されていません。

それだけに想像を膨らませやすい人物かもしれません。

 

テレビドラマ

 

如懿傳〜紫禁城に散る宿命の王妃~ 2018、中国
 役名:慎嬪・索綽倫(ソチョロ)·阿箬(あじゃく) 演:劉美彤

慎嬪をモデルにしていますが、描かれ方は歴史上の慎嬪とは全く違います。そのためか、慎嬪は索綽倫·阿箬という名前に変えられています。ドラマの慎嬪はオイラト人ではなく満洲人の設定に変えられました。

ドラマでは如懿の家の侍女でした。言動が粗野で野心があります。そのため如懿を裏切って皇后、金玉妍、高晞月と共謀します。

ところが皇帝に復讐されます。皇帝の寵愛をまったくうけていないにも関わらず「嬪」の地位にあげられ。皇帝の寝室に呼ばれますが、ベッドの前で座らされるだけで皇帝の寵愛は受けれらません。でも後宮の側室からは寵愛を受けていると誤解され嫉妬を集めます。

原作小説では最後は「猫刑」になりました。「猫刑」とは拷問の一種。猫が大量にいる部屋に幽閉されて全身を猫に引っかかれて血まみれになります。猫の攻撃では致命傷にならず死にません。でもそのかわり痛みと恐怖が長く続くという残酷で陰湿な刑です。最期は首吊り自殺をしました。

さすがにTVドラマでは残酷なシーンはカットされました。最期は爪を抜かれた後、猫拷問になりますが血まみれのシーンはカット。幽閉先で首吊り自殺をします。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました