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斉妃 李氏(雍正帝の側室)は息子の死とともに力を失った

清王妃側室 1.2 清の皇后妃嬪皇太后

斉妃 李氏(せいひ りし)は清朝の第5代皇帝 雍正帝の側室。

「宮廷の諍い女」では斉妃として登場します。

雍正帝が親王時代からの側室。

雍正帝が即位したときは生存している最年長の皇子でした。ところが第三皇子・弘時の生母。弘時は有能ではなく、罪をはたらき皇籍から外されて獄中死。それとともに斉妃も力を失います。

史実の斉妃 李氏 はどんな人物だったのか紹介します。

 

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斉妃 李氏 の史実

いつの時代の人?

生年月日:1676年
没年月日:1738年

姓:李氏
称号:斉妃
地位: 雍正帝の側室
父:李文輝
母:不明
夫: 雍正帝

子供:
和碩懐恪公主
弘昐(1697~1699年)
弘昀(1700~1710年)
弘時

 

清王朝の第代皇帝の時代です。

日本では江戸時代になります。

おいたち

1676年(康熙15年)に生まれました。

父は旗人(貴族)に仕える包衣(奉公人)の李文煇。
後に李文煇は雍親王のおかげで知府(知事)になります。

 

雍親王の側福晋になる

内務府選秀で雍親王・胤禛(雍正帝)の側福晋(側室)に選ばれました。

1695年(康熙34年)。和碩懷恪公主を出産。

1697年(康熙36年)。弘昐を出産しますが、弘昐は2歳で死亡。

1700年(康熙39年)。弘昀を出産しますが、弘昀は10歳で死亡。

1704年(康熙43年)に雍親王の三男・弘時を出産。

しかし弘時は子供のころからあまり勉強熱心ではなく、胤禛の政敵の允禩とも付き合っていました。

 

雍正帝の時代

1723年。康煕帝が崩御。夫の雍親王が即位、雍正帝となりました。

雍正元年(1723年)2月。李氏に「妃」の称号を与える準備が始まりました。このとき側福晋の年氏、格格の鈕祜祿氏も「妃」になることが決まりました。

内務府は斉妃の家族を包衣籍から旗籍に移すように上奏。雍正帝は認めました。また内務府は斉妃の親族も包衣籍から移すように上奏しましたが、雍正帝は却下しました。

12月。側福晋 李氏は正式に斉妃に冊封されました。これで弘暦(乾隆帝)の生母の熹妃 鈕祜祿氏よりも高くなりました。

 

息子が皇籍を外される

このころ。雍正帝の生存している皇子の中では第三皇子・弘時が最年長でした。

しかし遊び好きで、政治的な才能に乏しく爵位も与えられませんでした。

雍正2年(1724年)。斉妃の息子・弘時が師父の王懋竑の帰郷のため、伴読を年羹堯の家に派遣。銀一万両を借金しました。それを知った雍正帝は怒りました。

その後、弘時は素行不良を理由に允禩の養子にされ紫禁城から追放されました。その後、叔父の允祹の監視下に置かれました。

雍正5年(1727年)。弘時は更に罪を重ねて庶人に落とされ幽閉され、獄中で死亡します。

斉妃も母親として連累し、その後昇進することはありませんでした。

息子の死亡とともに斉妃も雍正帝の信頼を失い、後宮での力を失いました。

乾隆帝の時代

1735年。乾隆帝が即位。

その後、弘時の身分が回復。

乾隆4年(1738年)4月1日。斉妃が病重になり五龍亭に移居します。

乾隆帝は五龍亭を訪問、斉妃を見舞いました。

4月8日。斉妃が病死。乾隆帝は自ら五龍亭に行き斉妃の霊前に酒を供えました。
 

 

テレビドラマ

宮廷の諍い女 2011年、中国 役名:斉妃  演:張雅萌

父親は李知府ですが、先帝の時代に贈収賄で罪になり。ドラマの中では斉妃もすでに寵愛を失っているという設定。

富察貴人と親交があり、華妃よりも皇后に近い立場。

一人息子の第三皇子を溺愛。第三皇子を皇太子にするためにあれこれ手をうとうとしますが。人の意見に流されやすく失敗。

慎重さにかけるため罪が露見して皇后からも見捨てられます。最後は息子を守るために自害。

 

 

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