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侯君集|李世民に信頼された将軍だったのに李承乾の謀反で処刑

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

 

唐の凌煙閣二十四功臣(建国に功績のあった臣下)のひとり。

吐谷渾や高昌との戦いで功績をあげた将軍です。

しかし思慮の足らなさか、野心があるのか何度か問題を起こしています。

そして李承乾の謀反に加わり処刑されました。

中国の歴史書では野心家と書かれています。

史実の侯君集はどんな人物だったのか紹介します。

 

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侯君集の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:643年

名称:侯君集(こう くんしゅう)
父:侯定
母:不明
妻:不明

娘婿:

唐の第2代皇帝太宗・李世民に仕えた武将です。

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

侯君集の一族は豳州三水県(現在の陝西省咸陽市旬邑県)出身であること以外よくわかっていません。

生年はわかりません。

侯君集彼は気取った性格で常に偉そうに見せようとしていたと言われています。弓矢を好んで使っていました。弓術の名人というわけではありませんが、若い頃から戦闘能力の高さで知られるようになりました。

隋の末期から唐の建国の時期に李世民の配下に加わりました。

隋滅亡後、様々な勢力が乱立する中で唐の統一に貢献。左虞侯、車騎將軍に昇格しました。

626年におきた玄武門の変では李世民と対立している李建成・李元吉を排除するためいくつかの作戦を提案しました。李世民派が玄武門に来た李建成・李元吉殺害。高祖・李淵が譲位。李世民が即位しました。

太宗の時代

626年。兄弟を排除した李世民が皇帝に即位。

左衛将軍に任命され、潞国公の爵位を与えられます。さらに功績をあげて右衛大将軍になりました。

630年。兵部尚書になって朝廷の政治に参加。

吐谷渾との戦い

唐の西には吐谷渾(とよくこん)という遊牧民国家がありました。

吐谷渾は西域につながる交易路を支配していたので南北朝や隋の時代から何度も周辺国と戦っていました。隋の時代に衰えていたものの唐の時代になって吐谷渾の力が強くなってきたので討つことになりました。

634年。李靖が大総管、侯君集は李靖のもとで積石道行軍総管を務めました。

635年まで唐軍は勝利しましたが、吐谷渾は牧草地を焼き払って撤退しました。牧草が焼き払われると馬の餌が足りなくなります。ほとんどの武将は撤退を主張しましたが、侯君集は進軍を主張。李靖は進軍を決定します。飢えに苦しみながらも吐谷渾を追撃。吐谷渾を破りました。

637年。陳州刺史になりました。

638年。吏部尚書になりました。

吐蕃との戦いにも出陣しました。

高昌との戦い

唐と西域の通商路の途中に高昌というオアシス都市国家がありました。

639年。高昌王の麴文泰が西域との通商路を遮断。太宗は問いただすため麴文泰に長安に来るように言いましたが、麴文泰は病気を理由に来ません。

そこで、太宗は侯君集を大総管にして高昌を討たせました。

640年。唐軍が高昌に到着してみると、麴文泰は死亡。息子の麴智盛が跡をついでいました。麴文泰の葬儀のため民衆が集まっていました。諸侯たちは待ち伏せし攻撃しようと言います。しかし高昌は墓前で戦うのは良くないと反対。城を包囲することにしました。説得に応じなかったので攻城兵器を使って城攻めを行いました。西突厥の援軍が来ないことを知った麴智盛は降伏しました。

侯君集は高昌に兵を突入させ占領しました。その後、麴智盛と捕虜を長安まで連行しました。

ところが都に戻ると侯君集は訴えられます。

高昌を占領した時、侯君集は高昌で略奪を行い捕虜を奴隷にしたというのです。他の将軍たちも同じように略奪を行いました。侯君集は彼らを止めることができませんでした。

太宗はそれを聞くと侯君集と武将たちを投獄しました。

中書侍郎の岑文本が漢の李広利や陳湯の例をもちだして、侯君集の罪を許すようにうったえました。太宗は侯君集を許して釈放しました。

侯君集は大きな功績を上げたにも関わらず、逮捕されたことに不満を持ちました。

というのもこの時代の戦争では、程度の差はありますが略奪や拉致は当たり前だったからです。どうして自分達はダメなのか?と思う気持ちはあったかもしれません。

ただし君主によっては略奪や拉致を認めていない人もいました。遊牧民の軍団(唐の支配者層は鮮卑系遊牧民出身です)では戦利品は皆で分け合うことになっているので私物化したら問題にされました。

政敵による言いがかりの可能性もありますが、当時の慣習から見ても「これはやりすぎ」と思えるだけのことはしていたのでしょう。

643年の春。この件について張良と口論になりました。投獄されたのは誰かの陰謀ではないかと疑っていたようです。張良は太宗に報告しましたが、太宗は裏付けのない個人的な言い争いだといって問題にしませんでした。

太宗皇帝が凌煙閣二十四功臣の肖像画を作成。その中に侯君集もありました。

 

謀反の疑いで処刑

643年。皇太子の李承乾は、太宗が李泰を寵愛していること。李泰が皇太子の座を狙っていることを不安に思い部下たちと相談していました。そして李承乾と彼の派閥はクーデターを起こす計画をたてました。

侯君集の義理の息子で李承健の衛兵隊長をつとめている賀蘭楚石もこの計画に加わりました。

李承乾は、賀蘭楚石を通して侯君集も誘いました。そして侯君集はその計画に参加することにしました。ところが自分がやろうとしていることに不安を覚えるようになて不眠症になってしまいました。妻は侯君集の様子がおかしいことに気がついて「あなたは国の重要な役人なのになぜこのような事になっているのですか?もし何か悪いことを考えているのなら、命が助かるように自首したほうがいいのではありませんか?」と言いました。でも侯君集は自首しませんでした。

しかし李承乾の部下・紇干承基が別件で捕まりました。紇干承基は保身のため李承乾の計画をばらしてしまいます。李承乾の計画に参加してたものは全員捕まりました。そして李承乾は流罪。侯君集を含めた参加者は死罪になりました。

太宗ははじめ、侯君集は過去の功績が大きいので命だけは助けようと思いました。しかし官僚たちが反対したので死罪にしました。

侯君集は処刑される前、役人に訴えました。「私は反逆をするような者ではありませんが、間違いをおかしました。しかし将軍として2つの国を攻め滅ぼしました。その功績に免じて私の子供に家系を継がせて欲しいと陛下に伝えてください」とお願いしました。太宗はその訴えを聞き、侯君集の妻子は助けました。しかし財産は募集して広東地方にに追放しました。

 

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