孝翼皇太后・呉氏は景泰帝の生母

明1.7 明

孝翼皇太后(こうよくこうたいごう)は明朝の第7代皇帝・景泰帝の生母です。

ドラマ「女医明妃伝」では朱祁鈺(しゅ・きぎょく)の母・呉太妃として登場します。

本当なら皇太后になれるはずではなかったのですが。運命の悪戯で息子が皇帝になって皇太后になりました。ところがそれも長くは続かず妃に降格になってしまいます。

史実の孝翼皇太后・呉氏はどんな人物だったのか紹介します。

スポンサーリンク

孝翼皇太后の史実

いつの時代の人?

生年月日:1397年
没年月日:1462年1月16日

姓:呉
名称:不明
称号:宣廟賢妃、孝翼温恵淑慎慈仁匡天錫聖皇太后
父:呉彦名
母:申氏
夫:宣徳帝

子供:朱祁鈺(景泰帝)

彼女は5代皇帝・宣徳帝の側室です

日本では室町時代の人物になります。

おいたち

鎮江府丹徒県(現在の中国・江蘇省鎮江市)出身。

父は呉彦名。母は申氏。呉氏は2人の長女でした。

永楽帝の時代。

1412年。16歳のとき選ばれて朱瞻基(後の宣徳帝)のもとに来ました。

ところが呉氏の墓碑では呉氏は宮殿の後宮に入ったと書かれています。朱瞻基(後の宣徳帝)は当時・皇太子でした。後宮に入るということは朱瞻基のもとではなく永楽帝のもとに来たことになります。明史と違いがあります。

宣徳帝の時代。

1428年。朱祁鈺(後の景泰帝)を出産しました。男子を出産したので「賢妃」の地位を与えられました。

正統帝の時代

1435年。宣徳帝が死去。正統帝(英宗)が即位しました。

正統帝からみれば呉氏は父の側室で、異母兄弟の母。

賢妃呉氏は「呉太妃」と呼ばれました。

1447年。

皇太后になる

1449年。土木の変が起こりました。明と遊牧民オイラトの戦争です。

ところが軍を率いて出陣した正統帝がオイラトに捕まってしまいました。

重臣たちは相談して、正統帝の異母弟の朱祁鈺(景泰帝)を次の工程にしました。

呉氏は息子が皇帝になってくれたおかげで皇太后になりました。

英宗は釈放され帰ってきました。景泰帝が皇位を譲らなかったので英宗は軟禁状態でした。

しかしこの時代、英宗の生母・孝恭章皇太后孫氏もいました。皇太后が2人いる事になってしまいました。

息子の死で宣廟賢妃に降格

1457年。景泰帝が死亡。英宗が再び皇帝になりました。呉氏は宣廟賢妃に降格になってしまいます。

1462年1月16日。死去。栄思の諡が与えられました。

南明時代の1644年。「孝翼温恵淑慎慈仁匡天錫聖皇太后」の諡が与えられました。

宣徳帝は叔父を殺して呉氏を妾にした?

正史には書かれていない話に面白い内容の物語があります。

かつて呉氏は宣徳帝の叔父・朱高煦の妾でした。宣徳帝は叔父を殺害したあとで呉氏を自分の妾にしました。やがて息子・朱祁鈺(景泰帝)が生まれたといいます。

明朝末期に書かれた「罪惟録」という書物に書かれてたいた内容。罪惟録は歴史書として書かれていますが、信憑性の低い噂話も載せているため信憑性の低いところもあります。

この話も都市伝説の可能性が高いです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました