皇城司(こうじょうし)は宋朝時代の禁軍(皇城を守る親衛隊禁軍)兼スパイ組織です。
中国王朝には皇帝が臣下を監視するための組織を持っていることが多いです。明朝の錦衣衛が有名ですが、そこまで強力でなくてもいくつかの王朝には臣下を見張りスパイ活動や謀反人を取り締まる警察組織がありました。
宋朝時代には「皇城司」が存在しました。
元々は武徳司と呼ばれ、東京開封府の左承天門内に位置していました。
主に宮殿や周辺の警護。情報収集を担当していました。
皇城司とはいったいどんな組織なのか紹介します。
皇城司の役目
皇城司の役目は多いです。皇城の警備、皇室の安全を守ること。都の治安維持。軍隊の監視。経済状況の監察。政情の把握。外交の監察などを含みます。
皇帝の身の安全を守るのが第一。謀反を防ぎ、政治的・経済的にもおかしなところがないか監視しています。
皇城司(武德司)は大きな権力を持ち、明の錦衣衛に似ています。
皇帝直属で警察の権限が及ばない特別組織
皇城司は宋の皇帝たちから非常に信頼されていました。
皇城司は皇帝直属で、三衙(警察)の制限を受けません。皇城司の判断で捕らえることができます。
長官は皇帝の命令で任命されました。皇城司の親从官、親事官は禁軍から選ばれました。
宮中の警備
皇城司は皇帝直属の護衛。皇宮を守る最も重要な組織でした。
皇城司は都や皇城の門の警備、都に出入りするすべての人の身分確認、許可証の発行を担当していました。皇城の護衛の交代も管理していました。
太祖は精鋭部隊を皇城司に配置。以降、有能な人材が選ばれました。身体能力の高さも要求され、身長は五尺九寸一分六厘、現代の185〜190cmに相当する大柄の人たちが多かったようです。
諜報活動と監察
宋の太祖の時代、皇城司(武德司)の最も重要な職務は軍中の様子を探り、陰謀や謀反を防ぐことでした。
特に軍の動きは監視していました。太祖本人が軍を味方にしてクーデターを起こしたため、将軍たちの陰謀や護衛兵に怪しい動きがないか厳しく見張っていました。
記録にも太祖は「密かに軍中に人を遣って外事を探らせた」と書かれています。皇帝は武德司(皇城司)と使って軍隊の内部の動きも探っていました。
その後、軍の内部だけでなく。朝廷の臣下や民間の様子も探るようになりました。
人々からは「察子」ともよばれ恐れられました。
組織
長官と副長官
皇城使
皇城司の長官
宦官がなることが多いです。宋の皇帝は宦官を信頼しているからです。後に武官の任命されるようになりました。
宦官正六品、武官なら正七品以上の者。
皇城副使
皇城司のナンバー2
最初は宦官が任命されていましたが。後に武官も任命されるようになります。
吏員
勾当皇城司
実務担当の重役。
その下に役人が勾押官、押司官が各1人、前行が4人、後行が6人、勘契官が2人いました。
皇城司に所属する禁軍
親事官
皇城を警備する禁軍の兵士を親事官といいます。3千人ほどいたといいます。
親從官
親事官の中でも特に身体能力が優れたものを選んだ精鋭部隊。
身長185cm以上。35歳以下の制限があります。
皇城司の歴史
五代十国時代の武徳司がルーツ
皇城司のもとになったのは武徳司です。武徳司は宋以前からありました。五代十国時代の沙陀軍閥系王朝にはよく見られる組織です。
最初に武徳司が登場するのは後唐(923-936年)。
武徳司は皇帝直属の組織で臣下を監視。人々から恐れられていました。
後唐滅亡後は後晋・後漢・後周・宋が誕生。それらの王朝にも武徳司がありました。
これらの国は沙陀突厥系の武装グループが中心になって作った国です。もとは突厥系の遊牧民でしたが唐王朝に仕え戦闘に特化した傭兵集団になりました。沙陀突厥は武力がすべての実力社会。なので裏切りも多く短命な王朝が続きました。
そのため歴代皇帝は臣下を見張る特別警察を設置。謀反が起こらないように監視させました。
宋太祖 趙匡胤の武徳司
宋は後周の将軍だった趙匡胤がクーデターを起こして作った国なので。初期のころは後周の制度を受け継いでいます。当然、武徳司も受け継ぎました。
趙匡胤本人がクーデターを起こして皇帝になったので、臣下の裏切りには敏感です。武德司の最も重要な役目は軍の情況を探り、陰謀や謀反を未然に防ぐことでした。
皇帝が軍の内部に怪しい動きはないか探るための組織として活用しました。
太宗 趙光義時代に皇城司に改称
2代皇帝 太宗 趙光義は武徳司の名前を「皇城司」に変更。
その後、皇城司の役目はどんどん増えました。
軍の内部から、官僚の動き、民間の動向まで。あらゆるものが監視の対象になりました。
3代 真宗 趙恒の時代には民間の調査も行うようになっています。民間人からは「察子」と呼ばれていました。
以後、北宋・南宋を通じて「皇城司」と呼ばれます。
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