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イサンの実話:登場人物のモデルと史実の違い

韓国ドラマ「イ・サン」は朝鮮王朝第22代王・正祖(イ・サン)の生涯を描いた時代劇です。

幼い頃の悲劇、ソンヨンとパクテスとの友情、恋、権力闘争、改革、そして早すぎる死…。

波乱の人生を送った正祖イサンと彼を取り巻く人々の物語がこのドラマが人気の理由のひとつですね。

この記事では実在の人物とドラマの設定を比較。歴史書からわかる史実とドラマならではの面白さを紹介します。

 

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ドラマ『イ・サン』は実話?

韓国ドラマ「イ・サン」は李氏朝鮮の第22代国王 正祖を主人公にした作品です。

正祖は18世紀後半の朝鮮王朝で改革を推進した名君として知られています。

幼いころのエピソードは架空

幼い世孫・イサンは侍女見習いのソンヨン、宦官見習いのパクテスと出会い友情を育みます。二人との交流いはドラマの最後まで続きドラマの大きなみせどころです。

でも幼いころの彼らとの出会いとエピソードはすべて架空です。

父・思悼世子が米びつで餓死は本当

1762年。イサンがまだ幼かったころ。サンの父・思悼世子(サドセジャ)が英祖との確執や政治的な対立によって精神を病み、米びつに閉じ込められ餓死させられてしまうという悲劇的な事件が起こりました。

この事件はイサンの心に大きな傷を残したと言われています。

米びつ事件が正祖に与えた影響

この事件はイサンの心に深い傷跡を残し彼の人生を大きく変えました。イサンの後の行動から考察すると次のような影響があったと思われます。

  • 復讐心:父の無念を晴らすため、正祖は復讐心に燃え政治的な駆け引きに身を投じます。
  • 孤独感:幼い頃に父親を失ったことで、正祖は深い孤独感を感じ周囲の人々を警戒するようになります。
  • 改革への決意: 父の悲劇を繰り返さないために、正祖は国を改革し安定した社会を作り上げようと決意します。

 

厳しく育てられた子供時代

イサンは幼いころから頭がよく祖父 英祖からも期待されていました。英祖の教育や訓練は厳しいものでした、イサンは王位継承者として多くを学びます。

イサンは父の悲劇的な死を目の当たりにしつつも、学問に励み国家の舵を取る重要な役割を果たすことを求められました。

イサンの即位を邪魔する勢力

世孫イサンが王位につくためには、多くの困難が待ち受けていました。朝廷内にはイサンの即位を阻止しようとする勢力が存在し、激しい権力闘争が繰り広げられます。

貞純王后の兄・金亀柱(キムギジュ)、和緩翁主の養子・鄭厚謙(チョンフギョム)、母方の叔父・洪璘漢(ホンイナン)といった人たちは正祖の即位を妨害しました。

彼らはイサンの外戚勢力と対立したり、思悼世子と対立した老論の勢力。

彼らはイサンの恨みが自分たちに向けられていて、イサンが即位すると自分たちが危ないと思っていました。イサンの即位を阻止しようとしました。

 

英祖の死後に王になる。正祖誕生。

1776年。英祖が亡くなった後、正祖はついに即位。李氏朝鮮の第22代国王となりました。

後に正祖とよばれます。しかし彼には多くの困難が待ちかまえていました。

 

父の仇!即位直後の粛清の嵐。

正祖は即位するとさっそく「自分は思悼世子(サドセジャ)の子」だと宣言。周囲を驚かせました。

父・思悼世子(サドセジャ)の死に関わった者たちへの粛清を開始しました。

鄭厚謙や洪璘漢を処刑。金亀柱は大妃の兄だったので死罪は免れましたが島流しになりました。他にも処罰を受けた者は何人もいました。

その背景には、以下の3つの大きな理由が考えられます。

  1. 父の無念を晴らすため:思悼世子は、政治的な対立がもとで心を病んで米びつに閉じ込められ餓死させられました。正祖は父が冤罪で命を奪われたことを深く悲しみ、その無念を晴らしたいと考えていました。
  2. 権力基盤の強化:粛清によって自分の政敵となる可能性のある勢力を排除。自身の権力基盤を固めようとしたと考えられます。
  3. 改革の実現:父の死に関わった者たちは保守的な勢力であることが多く。正祖が目指す改革の邪魔になると考えられた、という見方もできます。

この粛清で正祖は父の仇を討つとともに政敵を排除。積極的に改革を進めることが可能になりました。王の権威はますます強くなります。

正祖暗殺未遂

しかし反対勢力を粛清する正祖を快く思わない人もいます。正祖の治世中は彼の命を狙う暗殺未遂事件が発生しました。

ドラマでもイサンが命を狙われる場面があります。史実でも正祖は命を狙われていたのです。

 

洪国栄を取り立て権限を与える。

正祖が王位についた時、彼はまだ若く経験も浅かったので信頼できる人物が必要でした。そこで目をつけたのが洪国栄(ホン・グギョン)でした。洪国栄は頭が良くて能力が高く、正祖に深い忠誠心を持っていました。

正祖は父 サドセジャの復讐を行い国を改革したいと考えています。洪国栄は正祖の期待に応え様々な活躍を見せました。

  • 王の護衛:正祖の身辺警護にあたり、王の安全を確保しました。
  • 正祖の敵対勢力の排除:正祖は洪国栄に捜査を任せました。
  • 政治改革の推進:正祖の改革を支え、新しい政策の実現に貢献しました。

しかし洪国栄の権勢は次第に大きくなり、勢道政治と呼ばれる独裁的な政治を行うようになります。これには正祖も不安になり最終的に洪国栄を退任させることになります。

改革を目指す

 即位後の正祖は様々な改革を通じて朝鮮社会の発展に取り組みました。彼の政策には、税制改革や教育制度の充実、士農工商を問わない人材登用などが含まれており、これらの施策は国民の生活を豊かにし国の繁栄に寄与しました。その結果、正祖は多くの国民から愛される国王となりました。

正祖の功績

正祖の主な功績には次のようなものがあります。

  • 実学の重視:英祖のころから朱子学よりも実用的な学問を大切にしようという動きがありましたが、正祖はさらに発展。清や西洋の進んだ技術や知識を取り入れ、ようとしました。
  • 幅広い人材を採用:英祖の行った蕩平策を受け継ぎ発展させせてそれまで採用の少なかった地域や派閥からも人材を採用。党派の争いを抑えようとしました。
  • 土地制度、奴婢制度、軍事制度の改革:新しい知識や人材を活用し、国内の様々な問題を解決するするためふるせい
  • 学問の発展:文芸、学問の振興のための奎章閣を設置。中国や朝鮮から多くの書物を集め保管するとともに人材も育成しました。この取り組みは正祖に忠誠を誓う者を育てるという意味もあります。
  • 地方役人の不正を取り締まる:派閥の温床になっていた書院出身者の中央進出を抑えるととともに、歴代で最も多くの時暗行御史を派遣し、地方役人の不正を監視しました。
  • 水原華城の建設:父の墓を改装するとともに水原に新しい街を建設。古い勢力の影響を抑えるとともに進んだ技術を取り入れた実験都市的な性格をもっています。

 

早すぎる死

 1800年。正祖は48歳という若さで死去しました。

彼の早すぎる死は多くの人々を驚かせました。

正祖の死因については、様々な説が囁かれています。

  • 病死説: 過労やストレスが原因で病に倒れ、亡くなったという説が最も有力です。
  • 毒殺説: 政治的な陰謀によって毒殺されたという説も根強く残っています。

正祖の死がもたらした影響

正祖の死後、朝鮮王朝は再び混乱の時代へと突入していきます。改革派と保守派の対立が激化。大妃が垂簾聴政を行うようになると。正祖が育てた人材は粛清。彼が行った改革の多くも廃止されました。王朝は衰退の一途を辿るようになります。

↓正祖の詳しい紹介はこちら↓
・正祖 イサンの史実と家系図

 

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ドラマと史実の違い

次にドラマでの描かれ方と史実との違いを詳しく見ていきましょう。

幼少期のドラマ設定 vs 史実

ドラマ『イ・サン』では、幼い世孫イ・サンが侍女見習いのソンヨンや宦官見習いのパク・テスと出会い、身分の違いを超えて深い友情を育む姿が印象的に描かれています。

この3人の関係は物語全体の“心の支え”として重要な要素ですが、史実ではこのような出来事は存在しません。

当時の王室では、世孫(王位継承者)は厳重に保護され、限られた人々としか接することができませんでした。したがって、平民出身や女官見習いと自由に交流するという設定は完全な作り話です。

項目 ドラマ設定 史実
幼少期の友人 ソンヨン、パク・テスと出会う 記録なし
父との関係 陰謀で命を奪われる 政争と精神的な病で死を命じられる
王室内の描写 幼少期から陰謀と孤独に翻弄される 教育中心の厳格な王室生活
性格描写 優しく情に厚い少年 勤勉で聡明、感情を抑える王子として記録

幼少期の記録は少ないので創作部分が多くなるものですが。このドラマでは王という立場の孤独さや、友情と信頼の尊さを表現するために加えられた演出だと考えられます。

とはいえ、史実のイ・サン(正祖)も、幼少期から政治的陰謀や権力闘争の渦中にいたのは事実です。

 

父・思悼世子の悲劇(米びつ事件)

イ・サンの幼少期を語るうえで避けて通れないのが、
父・思悼世子(サドセジャ)が命を落とした悲劇。通称「米びつ事件」です。これは朝鮮王朝史上でも特に衝撃的な出来事の一つですね。イ・サン(のちの正祖)の人生と人格に大きく影響を与えた事件でした。

 史実での事件の概要

1762年、世孫イ・サンがまだ11歳の頃、
彼の父・思悼世子は祖父である第21代王・英祖から日頃の行いを激しく追求された末に、王命によって米びつ(米櫃)の中に閉じ込められ、8日後に餓死しました。

この事件の背景には政治的な派閥争いと、厳しすぎる英祖の態度、思悼世子の心の弱さ。

あまりにも厳しい父の指導と派閥争いに思悼世子は精神を病み。暴力や殺人を犯すようになった。そこで英祖は孫の立場を守るために、世子を死に至らしめたといわれます。単純に善悪では語れない出来事です。

 ドラマと史実の違い

史実では以上のような複雑な事情があったのですが。ドラマ『イ・サン』では、思悼世子は政敵の陰謀によって陥れられ、理不尽な死を遂げた“悲劇の王子”として描かれています。

イ・サンに与えた影響

父を非業の死で失った幼いイ・サンは、深い心の傷と孤独を抱えて育ちました。彼が王位に就いてから進めた改革、派閥の抑制、人材登用制度の見直しなどは、“父と同じ悲劇を繰り返さないため”の行動だったといわれています。

ドラマ『イ・サン』でも大きな事件として描かれ。子供時代の孤独や、正祖の改革と復讐の原点として描かれています。

 

正祖の即位と改革

父・思悼世子の悲劇からおよそ14年後の1776年、祖父・英祖の死によりイ・サンはついに国王になりました。

幼い頃から政治闘争を目の当たりにしてきた正祖は、王座に就くとすぐに「思悼世子の子だ」と宣言し、同時に「王権の回復」と「政治改革」の2つを軸に統治を始めました。

即位直後の粛清

正祖が即位すると同時に行ったのが父・思悼世子の死に関わったとされる政治勢力の粛清でした。宦官や老論派の一部、そして反対勢力の中心人物であった鄭厚謙(チョン・フギョム)洪璘漢(ホン・イナン)らが処刑・流刑に処されています。

この粛清は復讐だけではなく王としての正当性を示し権力を自らの手に取り戻すための行いでした。

政治改革

ドラマの正祖もいくつかの改革を行っています。その中でも特に重要な政策をいくつか紹介します。ドラマの演出も史実の正祖の政策がモデルになっています。

  • 宿衛所・壮勇営の設置
    ホン・グギョンやパク・テスが関わり。命を狙われがちなイ・サンを守る部隊として描かれます。
  • 蕩平策・庶子の登用
    史実同様に幅広い人材を集めようとしますが、老論の妨害を受けることに。
  • 奴婢制度改革
    奴婢をなくそうとしますが、重臣の反対にあいます。
  • 実学の採用
    特に新しすぎる考え方のチョン・ヤギョンを採用後は、新しい知識・技術を積極的に活用しようとします。
  • 水原華城建設
    ドラマ終盤の最大の目標・父の無念を晴らすとともに、新技術を多く取り入れた新しい都として描かれます。

理想と現実の狭間で

しかし改革には常に抵抗が伴いました。正祖の進めた人材登用や実学重視の方針は、旧来の権力層や保守派(老論派)から激しい反発を受けます。

彼はしばしば命を狙われるなど、王でありながら孤独な戦いを強いられました。
それでも正祖は、「父のような不幸な王子を二度と出してはならない」という信念のもと、
政治改革と国家安定に全力を注ぎ続けました。

正祖の死とその後

新しい側室との間に王子コンが生まれ。サンは後継者として教育。貨幣不足などの問題に取り組みながら、忙しい毎日を贈ります。しかしついに正祖は過労で倒れ、48歳という若さで突然この世を去ってしまいます。

ドラマでは死因は病気と過労と描かれました。

史実では死因は病死説が有力。毒殺説も一部にありますが、信憑性は低いとされます。

 

実在した主要人物とモデル

ソンヨンのモデルは宜嬪成氏

 「イ・サン」に登場するソンヨンは、実在する宜嬪成氏をモデルにしたキャラクターです。宜嬪成氏は正祖の側室の一人。正祖が最も愛した女性と言われています。彼女の人生はドラマでも重要な要素になっています。

「イ・サン」の放送後、新たな史料が解読され宜嬪成氏の本名が 成徳任(ソン・ドギム)だったことやおいたち宮中での暮らしいくつかの事実が明らかになりました。でも制作当時は宜嬪成氏の情報はあまりわかっていませんから、ドラマオリジナルの設定が多いです。

そのためドラマでは「ソンヨン」という名前で登場。彼女の物語はかなりフィクションが多いものの、側室になったあとのソンヨンの軌跡は「朝鮮実録」に描かれた宜嬪成氏の人生と重なります。

「赤い袖先」は新しく解読された情報をもとに作られているので宜嬪成氏の設定は史実に近いです。でもドギムの言動が現代的すぎるため逆に架空の人物っぽくみえます。

ソンヨンの子どものころの話はすべて架空

 ドラマ「イ・サン」のソンヨンが側室になるまでのエピソードはすべて作り話。史実ではありません。

史実では宜嬪成氏の子ども時代についてあまり多くの記録は残されていません。でもそれではドラマにならないので、視聴者が感情移入しやすいようにするために様々な脚色が加えられています。

 

宜嬪成氏は図画署(トファソ)には入っていない。

史実では宜嬪成氏が図画署(トファソ)に所属していたという記録はありません。ドラマではソンヨンは美術や絵画に関わり清にまで行って様々な活躍をします。でもこれらは全て物語を豊かにするための脚色です。

イ・ビョンフン監督の作品では朝鮮王朝の様々な役割の人達にスポットをあて、朝鮮の歴史や文化に興味をもってもらおうと工夫されています。ソンヨンもそうした方針で特別な技術や枠割を与えられたのでしょう。

史実でのイサンとの出会いと側室になるまで

宜嬪成氏とイサン(正祖)がどのように出会ったのかは詳細な記録が存在していません。

史実の宜嬪成氏は正祖の母・に仕える宮女でした。イサンは世孫のころから母に仕える成氏に興味をもち、側室になるよう誘っていました。

でも成氏はイサンの妻に遠慮して断っていました。その後もイサンの求愛を拒んでいますが。正祖が王位についた後、正祖の強い希望で側室になったといわれます。

「イサンの求愛を拒んだ」部分はドラマでも形を変えて再現されていて、成立しそうで成立しないドラマチックな展開に繋がっています。

子供が3人生まれるもすべて亡くなる。

宜嬪成氏は正祖との間に3人の子供をもうけましたが、残念ながら全員が幼くして亡くなってしまいました。

息子の文孝世子の死は正祖をはじめとする王族や国民に大きな悲しみをもたらしました。ドラマでもこの悲劇的な出来事が描かれ印象深い場面になっています。

早すぎる死

宜嬪成氏はわずか34歳という若さでこの世を去りました。

正祖との間に生まれた深い愛情、そして子供たちの早すぎる死…これらの悲しみは彼女の短い生涯を彩る大きな出来事でした。

ドラマでも彼女の死は大きな転機となりイ・サンの心に深い傷跡を残します。

↓宜嬪成氏の詳しい紹介はこちら↓
ソンヨンは実在、イサンの側室 宜嬪成氏とは?

 

パク・テス:サンとソンヨンを見守った親友

パク・テスは架空

 ドラマ「イ・サン」に登場するパク・テスは架空の存在です。

ですからパク・テスと幼いサン、ソンヨンの友情やその後の絆を育むストーリーもすべて架空です。でも彼の存在はサンやソンヨンにとっても重要でした。

 

モチーフになった人はいる

パクテスは架空とはいいならも。モデルとされる人物はいます。

それは武官の白東脩(ペク・ドンス)です。

白東脩は正祖の護衛武官でした。武芸書の編纂も行っています。

パクテスが正祖の護衛武官になり武芸書の編纂に協力するところは白東脩を参考にしているようです。でもドラマ後半に少しですが本物のペクドンスが登場。モチーフになった人間と対面するという面白い現象が起きています。

 

孝懿王后(ヒョイ王妃)

史実でも評判のよい王妃

 孝懿王后(ヒョイワンフ)は正祖の正妻、朝鮮の歴史上でも非常に評判の良い王妃として知られています。

彼女は高い治世を持ちつつ、落ち着いた性格と深い思いやりで宮中の人々から尊敬され正祖を支える重要な役割を果たしました。

孝懿王后は徳を重んじる心と思いやりによって朝鮮王朝の理想的な王妃として語られています。

子どものできないプレッシャーで想像妊娠

孝懿王后は王妃という立場上、王位後継者を産むことを期待されていました。

でも彼女はなかなか子供を授からず、プレッシャーを抱えることになります。精神的な重圧は彼女に影響を与え、一時は”想像妊娠”という形で表れるに至りました。

これは孝懿王后だけでなく当時の王妃や側室が必ずといっていいほど遭遇する過酷な現実でした。

このような苦しみがあったにもかかわらず、彼女は思いやりと知性で乗り越え、王妃としての役割を全うしました。

元嬪の死でホン・グギョンから犯人だと疑われる

正祖の側室・元嬪が亡くなったときには、さまざまな疑念が渦巻いていました。

そのため孝懿王后はホン・グギョンから疑いをかけられることもあったといいます。史実では真相は明らかになっておらず様々な説があります。

ドラマ「イ・サン」ではホングギョンがヒョイ王位を疑い、暗殺しようとたくらむ原因として描かれています。

結局は疑心暗鬼になったホングギョンの思い込み、濡れ衣なのですが。ドラマの緊張感が高まる印象深い場面として描かれてました。

 

「赤い袖先」では
この世界にも王妃は存在はするのですが。全く画面に登場しません。

 

貞純王后:ドラマでは黒幕

史実では貞純王后は敵対していない

ドラマ「イ・サン」では貞純王后(大妃)はイサンを排除しようとする勢力の黒幕のように描かれています。

でも史実では貞純王后がイサンに敵対行為を行ったという記録はありません。

大妃になった後も、後宮の最高権威者として存在感を保っていました。ときにはあまりも後継者作りに不熱心な正祖に注文を出して困らせることもあったようですが。彼女も王室の将来を考えてのこと。正祖に危害を加えるつもりはありません。

このような演出になっているのは、ドラマをより面白くするため、正祖の即位や改革への反対勢力を象徴的に表現するために、あえて誇張されているようです。

ドラマではなぜ貞純王后が悪役っぽく描かれるの?

確かに英祖から正祖の治世の権力闘争は確かに激しくて、多くの人物や派閥が絡み合っていました。

でも史実の貞純王后は直接、正祖に敵対行為を行ったことはありません。

ではなぜ貞純王后が悪の親玉として描かれるのでしょうか?それには理由が2つあります。

兄の金亀柱が正祖と敵対したから

貞純王后の兄・金亀柱(キムギジュ)は正祖の外祖父・洪鳳漢(ホンボンハン)と敵対関係にあったことが確認され。金亀柱の派閥と洪鳳漢の派閥は対立していました。

金亀柱は世孫(正祖)の代理聴政には反対していませんが。思悼世子が英祖に無断で平壌に行ったことを英祖に報告。思悼世子が失脚する原因を作りました。そのため金亀柱は正祖からは嫌われ。正祖即位後に流刑にされてしまいます。

金亀柱が思悼世子と敵対、正祖から処分を受けたのだから貞純王后も関わっているのだろう。と考えられたのです。

正祖の改革を壊したから

正祖の死後、純祖が即位しました。純祖は幼かったので貞純大妃が垂簾聴政をしました。その期間に正祖が育てた人材が粛清され、正祖の改革の多くが廃されました。

正祖の改革は伝統的な両班の価値観に逆らうものでした。なので改革の廃止は貞純大妃個人の思惑というよりは、正祖に押さえつけられていた保守派の反発なのですが。

貞純大妃の名前で命令が出されていますから。貞純大妃個人も正祖に悪意があったのだろうと思われているのです。

貞純王后も兄を追放した正祖には恨みはあったかもしれませんが。世孫時代のイサンには関係のないできごとです。そのためドラマを面白くするための脚色として貞純王后が悪役として描かれているのです。

「大王の道」では
貞純王后は思悼世子やサンには敵対せず、むしろ同情的です。

「赤い袖先」では
世孫時代のサンには協力的。貞純王后がサンに敵対的に描かれるのは兄・キムギジュが流罪になって赦免されなかE%3たからです。

 

ホン・グギョン:イ・サンを支えた天才

ドラマ『イ・サン』に登場するホン・グギョンは、正祖を陰ながら支える天才的な策士として描かれています。しかし、その卓越した能力の裏には、独断的な一面や、周囲との複雑な人間関係が隠されていました。今回は、そんなホン・グギョンについて、彼の魅力と影の部分を深掘りしていきます。

イ・サンの側近として力を持つ

ホン・グギョンは若いころからイサンの目に留まり、側近として重用されました。彼の高い才能と忠誠心は正祖の改革を陰ながら支え、多くの困難を乗り越えていきました。彼の知略と行動力は味方が少な方若いころの正祖にとっては大きな力でした。

力を持ち独断が目立つ

正祖はホングギョンを信頼。彼に大きな権限を与えます。でもその能力と権限ゆえに、独断的な行動が目立つこともありました。

正祖の意向を汲みながらも、時に自分の考えを優先。周囲を巻き込むこともあります。その強引なやり方は、周囲から反発を招きました。

妹を正祖の側室に

ホングギョンは自分の妹を正祖の側室にするという決断をします。

貧しい暮らしをさせてきた妹にいい身分や生活を与えたいという気持ちもあったのかもしれませんが。一番には自身の権力をさらに強めようという政治的な思惑があったからです。

元嬪の死で王妃を憎んで暗殺しようとした?

ドラマでは元嬪の死を巡りホングギョンが王妃を憎み暗殺を企てたという描写があります。

しかし実際にホングギョンが孝懿王后を毒殺しようとしたという記録はありません。19世紀ごろから広まった噂話の影響が強いようです。

元嬪の死は彼にとって大きな衝撃ですし、その悲しみから王妃を疑ったりしたかもしれませんが。実際に暗殺を企てたという証拠はなく、謎に包まれています。

失脚と死

ホングギョンは常渓君を元嬪の養子にして。正祖に世継ぎに決めるよう進言。これには正祖もホングギョンを疑うようになりました。

もともとホングギョンに反発する者は多かったので、ホングギョンが正祖の信頼を失ったとわかると弾劾が一斉に起こりホングギョンは辞職しました。

正祖もホングギョンを流罪にしましたが。流刑先で病死しました。

実際には失脚の理由はよくわかっていない。

ホングギョンの失脚と死については詳しい経緯が記録されていないので。様々な憶測が語られています。

史料が少ないので失脚までの経緯はドラマ制作者の腕の見せどころでしょう。

ドラマでの演出

「イ・サン」ではホングギョンは次第に権力に取り憑かれ大妃の勢力に取り込まれてしまいます。元嬪の死をきっかけに、もともと警戒されていた王妃を逆恨み。暗殺しようとしますが結果的に正祖を危険にさらしてしまい。流罪となりました。

ドラマ「イ・サン」でも彼の栄光と没落、悲劇的な最期が視聴者に深い印象を与えました。

その他の実在した人物たち

個々に紹介した主要キャラ意外にも実在の人物や実在の人物をモデルにしたキャラクターがいます。ドラマに登場する実在人物を表にしました

登場人物(ドラマ名) 史実での人物名 史実上の地位・関係
英祖 英祖(第21代国王) 第21代国王、正祖の祖父
思悼世子 思悼世子 英祖の次男、正祖の父
ヘギョングン 洪氏 恵慶宮 洪氏 思悼世子の正室、正祖の母
ファビン(和嬪)尹氏 和嬪 尹氏 正祖の側室
ウォンビン(元嬪)洪氏 元嬪 洪氏 正祖の側室、グギョンの妹
文孝世子 文孝世子 李旲 ソンヨンの子
王子コン 純祖 李玜 第23代国王
ファワン翁主 和緩翁主 英祖の娘・思悼世子の妹
チョン・フギョム 鄭厚謙 和緩翁主の養子
ホン・ボンハン 洪鳳漢 恵慶宮の父、正祖の外祖父
ホン・イナン モデルは洪麟漢 洪鳳漢の弟がモデル
チョン・ヤギョン 丁若鏞 実学者・政治家・思想家
チェ・ジェゴン 蔡済恭 思悼世子の忠臣・学者
ペク・ドンス 白東脩 武官・武術家
パク・チェガ 朴齊家 実学者、『北学議』著者
ユ・ドゥッコン 柳得恭 実学者・詩人
イ・ドンム 李徳懋 学者・詩人
恩彦君・恩全君・完豊君 恩彦君・恩全君・完豊君 王族(英祖・正祖の一族)
チャン・テウ モデルは金鍾秀 老論派の儒学者がモデル

こうしてみると多くの人物が実在したことがわかります。

 

まとめ:なぜイ・サンが人気なの?

今回は、韓国ドラマ「イ・サン」について、簡単にご紹介しました。

ドラマではイ・サンが幼い頃に父親を亡くしてしまうという悲しい過去や、王になるためにたくさんの困難を乗り越えていく姿が描かれています。

そんなイ・サンが周りの人たちと協力しながら国を良くしようと頑張る姿に、多くの人が感動し共感したと思います。歴史に興味がない人でもドラマの世界観に引き込まれること間違いなしです。

もしイ・サンについてもっと詳しく知りたいことがあれば、コメント欄で教えてくださいね!

 

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執筆者:フミヤ(歴史ブロガー)
京都在住。2017年から韓国・中国時代劇と史実をテーマにブログを運営。これまでに1500本以上の記事を執筆。90本以上の韓国・中国歴史ドラマを視聴し、史実とドラマの違いを史料(『朝鮮王朝実録』『三国史記』『三国遺事』『二十四史』など)に基づき初心者にもわかりやすく解説しています。類似サイトが増えた今も、朝鮮半島を含めたアジアとドラマを紹介するブログの一つとして更新を続けています。

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