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李之蘭(イ・ジラン)李成桂の義弟は女真族の強者

5 李氏朝鮮の重臣

李成桂の登場するドラマには必ずといっていいほど登場する李之蘭(イ・ジラン)。李成桂とは義兄弟の契を結んだ武将でした。

女真族出身で戦に強い武将です。李成桂とともに多くの戦を経験し、李成桂が「戦いで李之蘭より良い者はいない」と賞賛するほどでした。

史実の李之蘭(イ・ジラン)はどんな人物だったのか紹介します。

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李之蘭(イ・ジラン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1612年2月5日
没年月日:1645年5月21日

名前:李之蘭(イ・ジラン、り しらん)
モンゴル名:豆蘭帖木児(ドラン・ティムール)
称号:
父:阿羅不花(アラブカ)

妻:
恵安宅主尹氏
君夫人康氏(神徳王后康氏の姪)

彼は高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初期の武将。

日本では室町時代の人になります。

おいたち

イ・ジランは女真族出身です。かつては豆蘭帖木児(ドラン・ティムール)と名のっていました。

父は女真族の豪族・阿羅不花(アラブカ)。モンゴル帝国(元)では千戸(軍団長)でした。

父の官職を受け継いで千戸になったといわれます。

1371年(恭愍王20年)。部下を率いて高麗に帰化。北青で暮らすようになりました。李成桂(イ・ソンゲ)と出会って弓比べをして義兄弟のち義理を結び李姓をもらいました。

以後は李之蘭(イ・ジラン)と名乗り、李成桂の指揮下で戦います。李成桂は「戦いでは李之蘭より優れた人はいない」と高く評価していました。

 

1380年(禑王6年)。李成桂に従って、倭寇討伐に参加。敵将の阿只抜都(アキバツ、高麗側の呼び名・本名不明)を打ち取る手柄を立てました。

1383年(禑王9年)。端州に倭寇が攻めてきました。一時は高麗軍が敗退するなど苦戦しました。当時、李之蘭は母の喪に服しており戦闘には参加していませんでした。李成桂の呼びかけで戦闘に参加しました。しかし、吉州の原野で先陣をきって戦い胡拔都(ホバトゥ、高麗側の呼び名・本名不明)に破れました。

1385年(禑王11年)。倭寇が咸興に攻めてきたたね、李成桂とともに戦い撃退しました。その功績で宣力佐命功臣の称号を受けました。

その後も、李成桂の側近として数々の戦場で李成桂とともに戦いました。

 

1388年(禑王14年)。威化島回軍(李成桂が起こした反乱)のあと、會議都監事となりました。

鄭夢周と鄭道傳(チョン・ドジョン)が対立して鄭道傳が投獄された時、李芳遠(イ・バンウォン)が鄭夢周(チョン・モンジュ)の暗殺を命じましたが、李成桂の命令ではないとして暗殺には関わりませんでした。

1392年。李成桂が李氏朝鮮の王に即位(太祖)すると、国功臣1等となり「青海君」の称号を与えられました。

第一次皇子の乱では李芳遠(イ・バンウォン)に味方して鄭道傳の殺害に参加しました。

太祖(李成桂)が王位を退くと、定宗から門下侍郞平章事の役職を与えられました。

1400年。太宗が即位すると辞職。故郷に帰りました。過去に多くの人を殺したことを後悔し仏門に入りました。

1402年(太宗2年)。死亡しました。享年73歳。

李之蘭の子孫は李氏朝鮮に代々仕えました。青海李氏とよばれます。

ドラマでは豪快な人物として描かれることが多いですが、容姿が美しく女性のようだったと記録されています。

李之蘭は恵安宅主尹氏と結婚しました。その後、太祖の妃・神德王后康氏の姪と結婚しました。

李之蘭は李成桂より4歳年上ですが、李成桂は李之蘭の伯父になります。

テレビドラマ

龍の涙 KBS 1996年 演:カン・インドク
大風水 SBS 2012年 演:キム・グテク
鄭道傳 KBS 2014年 演:ソン・ドンヒョク
六龍が飛ぶ SBS 2015年 演:パク・ヘス

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