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清王朝を作った満洲人(女直・女真)とは?

大清 1 清・金

清王朝を舞台にしたTVドラマが多く放送されるようになりました。

清王朝は中国王朝とはいっても漢や明王朝など漢人の作った国とは違います。言葉や名前、習慣など、私達日本人が思っている中国王朝のイメージとは違う部分があります。その一方で現代人が想像する「中国的なもの」のイメージを作ったのも清王朝。複雑な国なのです。

そのような清王朝を作ったのが満洲人と呼ばれる人たち。「満洲」と名乗る前は「女直(女真)」と名乗っていました。「女真族」と呼ばれる人たちです。

日本には中国人や朝鮮人から見た記録しか伝わっていないため、「女真族は野蛮人」のイメージを持っている人も多いと思います。とくに韓国ドラマに出てくる女真族は典型的な野蛮人として描かれています。でも中国ドラマの清王朝の人々とはかなりイメージが違います。

でもどちらも同じ民族です。

満洲人・女直人とはいったいどのような人だったのでしょうか?

では清王朝を作った満洲人・女直人について紹介していきましょう。

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満洲という名前

日本では「満州」と書くことがあります。でも、

民族名は ”氵=サンズイ”の付いてる「満」です。

これは「満洲」が彼らの言葉「マンジュ」の発音を漢字に置き換えたからです。先に「マンジュ」という名前があって、あとから漢字を当てはめました。「満洲」という漢字の組み合わせに意味はありません。

「満」という「州」はないのです。
「満」という「州」に住む「人」もいません。
マンジュ(満洲)と名乗る人たちがいるのです。

ただし氵(サンズイ)を付けることにはこだわりがあるようです。

その理由は五行説と関係があるといいます。五行説では明朝は「火」の王朝でした。明朝を打倒したいマンジュ人は「水」の属性にこだわったからサンズイをつけた「満洲」という漢字にしたというのです。

「マンジュ」の語源はよくわかっていません。

一説には、マンジュには「聡明な人」という意味があるようです。仏教の知恵の仏、文殊菩薩(マンジュシュリ)にちなんで「マンジュ」という言葉を女直人の間では人名や尊称に使っていたといわれます。

ヌルハチはこの「聡明な人」という意味の「マンジュ」を自分の国名に使った。といわれます。少なくともそのように信じていたようです。

乾隆帝の時代には 満洲(マンジュ)という名は文殊菩薩(マンジュシュリ)からつけたと主張しました。というのも乾隆帝は仏教徒だったからです。仏教の聖地・チベットを支配下においたので仏教の保護者のイメージを強調したかったという事情もあります。

満洲とは

満洲人のもとはジュシェン(女直)人

清王朝を作った満洲人は明の時代までは女直じょちょくと言われてました。女真しょじんとも書きます。

女真?女直?

金国の歴史を書いた「金史」では金国を作った人々を「女直」と書きました。遼、元、明の正史でも「女直」と書いています。宋、高麗、朝鮮では「女真」と書いています。

金史の表現方法を尊重してこの記事では「女直」と書きます。

最初は女真と書いていたようですが、契丹皇帝に「真」の漢字を名前に持つ人がいたので遠慮して真の字を避けたからだといいます。それ以降、女直と書くようになりました。

皇帝や身分の高い人の名前の文字を目下の者が使うのは避ける習慣をを避諱(ひき)と言います。もともとは中国の文化ですが、漢字を使う日本でも広まったことがあります。

隋・唐の時代には靺鞨まっかつ人と呼ばれていました。10世紀に遼(契丹:キタイ)の支配下にはいったころから女真と呼ばれるようになりました。

女直とは彼らの自称「ジュシェン」の発音を漢字に置き換えたもの。「ジュシェン」という言葉には「人」や「民」の意味があります。

「女直・女真」の漢字に意味はありません。女が族長だとか、「女」であることに意味はないです。女直人はほとんど漢字は使いません。「女直」の漢字は古代中国人が勝手につけたものです。

しかし中国が異民族の名前に漢字を使うときは差別的な意味をもたせることが多いです。「女真」という漢字を使ったのは何か意図があったはずです。これは想像ですが、男性優位社会の狩猟・遊牧民にとっては「真に女(のよう。または、そうあるべき)」と言うことが侮辱的な意味だったのかもしれません。

古代日本人が自分たち(あるいは自分たちの集団)を「わ」と言ったのに対して、古代中国人が「倭」という漢字を当てはめたのに似ています。

女直人=満洲人が本格的に漢字を使いだしたのは清朝になってから。それまでは女直の知識人はモンゴル文字を使うのが常識でした。モンゴル文字を使ってジュシェン語を書いていました。ヌルハチの家族もモンゴル文字は書けますが、漢字が書けたのは一部だけでした。

でも自分たちの言葉を表現する文字がないのは不便です。そこでヌルハチがモンゴル語をもとに満洲文字を作りました。

またジュシェン(女直)には「民」とか「服属する人」という意味がありました。契丹やモンゴル、明に従っているときはそれでもよかったのでしょう。でもホンタイジはふさわしくないと考えました。「女直・女真」を廃止。民族の名前をマンジュ(満洲)に変えました。

マンジュ(満洲)はヌルハチの作った国の名前でした。ホンタイジの時代に民族の名前になりました。その後「満洲」は地名になりました。現在の中国では「満洲」という地名は使いませんが、欧米では今も満洲人の多くいた地域を「Manchuria」とよんでいます。

女直人が住んでいた場所

女直(女真)人はユーラシア大陸の北東部。現在の中国東北部、ロシアの沿海州で暮らしていました。

明朝は女直人を3つのグループに分けて呼んでいました。建州女直・海西女直・野人女直です。

女真人の勢力

明時代の女直勢力

建州女直(マンジュ・グルン)

明朝が建州女直と呼んでいたグループ。女直人の呼び方では「マンジュ・グルン」です。(満州語でグルン=国)
スクスフ・フネヘ・ジェチェン・ワンギャ・ドンゴの5つの小国の集まりです。

次に紹介する海西女直(フルン)に比べると豊かな地域ではないので生活は厳しいです。こちらも明の支配を受けていました。南は李氏朝鮮と国境が接しています。

高麗以前は朝鮮半島北部でも暮らしていました。遼は高麗に義州周辺の江東六州を譲渡しました。高麗は江東六州から女直を追い出そうとしたため争いがおこります。

ちなみに李氏朝鮮の建国者・李成桂は朝鮮半島北東部の出身ですが、この地域も女直人が住んでいた場所。李成桂の配下には大勢の女直兵士がいました。建国までの李成桂の勢力は女直の武力に支えられていました。

つまり朝鮮王朝は女直のおかげでできた。と言っても良いかもしれません。

李氏朝鮮建国後も朝鮮半島北部は争いの場所になりました。世宗時代に女直は朝鮮半島から追い払われ国境線が決まります(それが現在の北朝鮮と中国・ロシアの国境線)。その後も李氏朝鮮との間で領土争いが絶えませんでした。韓国ドラマで描かれる「女真族の襲撃」は女直にとっては住処を奪い返すための戦いだったのです。

そのような厳しい状況を克服するため、スクフス部出身のヌルハチが建州地域の部族をまとめてマンジュ・グルンを建国しました。やがて民族全体を統一して”後金国=アマガ・アイシン・グルン”を建国します。

後金が李氏朝鮮に高圧的な態度をとった理由のひとつが、過去の争いの歴史ににもありました。

海西女直(フルン・グルン)

明朝が海西女直と呼んでいたグループ。ジュシェン人の呼び方では「フルン・グルン」です。女直の中では豊かな地域。ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファの4つの小国が集まって連合国を作っていました。

でもマンジュ・グルンほどの強力な結びつきはありません。明朝とは良好な関係を築いていました。フルンの盟主はハダ部でしたが、衰退したためイェヘ部が盟主になりました。イェヘ部はヌルハチの民族統一に最後まで抵抗しました。

フルンの王族は女直でも名門とされました。そのため清朝建国後にフルン王族の子孫から何人も皇后が出ています。

清朝時代に烏喇那拉(ウラナラ)、那拉(ナラ)、葉赫那拉(イェヘナラ)、納蘭(ナーラン)、輝發那拉(ホイファナラ)などの姓を持つ皇后や妃嬪がいます。これらの人たちは祖先がフルンの王族でした。

「ナラ」は太陽を意味します。フルンの王族は「ナラ」を姓につけていました。

野人女直(東海諸部)

明朝から野人女直と呼ばれた人たちはワルカ・ウェジ・フルハなど、いくつかの部族に分かれていました。まとまりはありません。女直でもとくに勇猛な部族だったといいます。彼らもヌルハチのマンジュ・グルンに吸収され後金の一部になります。

建州女直・海西女直・野人女直らの人たちは小さな国に分かれて争っていました。それでも自分たちは漢人でもモンゴル人でも朝鮮人でもない独自の言葉を話す集団だという自覚はありました。そしてそれらの部族のおおまかなまとまりを「ジュシェン(女直)国」と考えていました。

長白山は神聖な山

女直(ジュシェン)人は長白山(朝鮮では白頭山)を祖先神の降臨した山、神聖な場所と考えていました。

長白山を聖地と考えるのは高句麗、渤海などツングース系民族の特徴です。高麗など高句麗の末裔を自称(あくまでも自称です)する国も祖先が長白山に降臨したという伝説を持ちます。ヌルハチの一族も「祖先が長白山に降臨した」という伝説を持ちます。

降臨した神は鵲(かささぎ)の姿をしていました。なので満洲人にとってかささぎは神聖な鳥になりました。特に皇帝一族の愛新覚羅(アイシンギョロ)氏にとっては一族のシンボル的な鳥でした。

今は取り壊されましたが、紫禁城には神鳥の鵲が降臨するとまり木がありました。そこでは月に一度、シャーマンが儀式を行っていました。シャーマニズムの儀式は他の中国王朝にはない習慣です。清朝になっても女直人の伝統を受け継いでいるのです。

女直(ジュシェン)人の言葉

女直(ジュシェン)人の言葉は中国語とは違います。アルタイ語系の女直語(満州語)を話していました。同じアルタイ語族のモンゴル語や朝鮮語に近いです。日本語もアルタイ語系なので文法が似ています。

ところがジュシェン人は長い間、文字をもっていませんでした。

12世紀にワンヤン・アゴダが建国した金国の時代には漢字をもとにした女直文字がありました。ところが金国が滅亡すると忘れられてしまいました。

でも文字がないと不便です。そこでジュシェン人はモンゴル文字を使っていました。ヌルハチの時代になってモンゴル文字をもとに満洲文字を作りました。

清朝でも漢字とともに満洲文字が使われました。

 満洲文字で書いた「満洲」:ᠮᠠᠨᠵᡠᡠᡴᠰᡠᡵᠠ

ところで清朝の宮廷の役人たちが使っていた北京官話が現代の中国語(北京語:普通話)のもとになっています。北京官話は山東の漢人が使っていた方言がもとになっています。清朝滅亡後、この北京官話を全国に普及させたのが北京語(普通語)なのです。

清朝以前の女直(ジュシェン)人の生活

ヌルハチの時代まで女直人は主に畑作で生計をたてていました。狩猟民族といわれますが、定住生活が当たり前になり農作業をしていたのです。寒い地域なので水稲栽培は向いていません、畑作が中心でした。農作物に恵まれた豊かな土地とはいえまん。漁業を行う人もいました。

土壁の家で暮らし。家の周囲に畑を作ったり、家畜を飼ったりしていました。しかし狩猟民族の習慣はわすれてはいません。時々森林に入りテンなどの動物を狩って毛皮をとりました。狩猟用の小屋をもち長期間滞在して狩猟する人もいました。

狩りで得た獲物は毛皮をとって自分たちで使うほか、輸出用の商品にもなりました。また野生の薬用人参(いわゆる高麗人参)を採取して明に輸出していました。毛皮と薬用人参は重要な産業でした。

定住生活をするようになっても狩猟民族の誇りは忘れず狩猟で取ったテンの毛皮を帽子や衣服に着けていました。毛皮は防寒だけでく地位を身分を表すステータスにもなりました。

海岸付近で暮らす女直人は漁業もしていました。船を作る技術をもっていたので、元寇のときには女直人が元軍に参加していたこともあります。

女直は韓国ドラマに出てくるような蛮族の集団ではなく、日本や朝鮮の田舎の生活に近い畑作+狩猟と漁業の暮らしをしている人たちでした。しかし決して豊かではありません。明との交易でなんとか食いつないでいる状態でした。

女直人の軍隊は勇猛で強かったといいます。服従する者には寛容だけれども、敵対する者には容赦がないです。この性質はモンゴルなど遊牧民と似ています。中国や朝鮮からみると野蛮なまでの暴力にみえたのもそのせいかもしれません。厳しい環境で生きているハングリーさと狩猟民族ならではの勇猛さが強力な戦闘集団を作り出す原因になったのでしょう。

女直(ジュシェン人)のみなり

女直人の衣服はモンゴル人の衣装に近いです。筒型の衣服、ズボンを着用します。いわゆるチャイナドレスは満洲人の民族衣装(旗袍)がもとになっています。旗袍は清朝のドラマで宮中の女性が着ている服です。

清朝時代は一般の漢人は旗袍を着るのを禁止されていました。漢人でも旗人(身分の高い人)は着用可能です。なので一般の漢人にとっては「旗袍は身分の高い人の服装」に思えたのです。そこで清朝滅亡後に漢人が旗袍をアレンジして着たのがチャイナドレスです。

身分の低い漢人でも死後は旗袍を着ることができました。キョンシーが清朝貴族のような服を来ているのはそのためです。せめて死んだあとだけでも高級な服を着せてあげたい。という漢人の切ない想いがこもっています。満洲人を野蛮人といいながら衣装には憧れていたのです。

ジュシェン人はチャイナドレス型の衣装の下にズボンをはきます。

髪型は男性は辮髪。頭の一部だけ髪を残しして剃ります。残った髪は長く伸ばして編みます。

昭和まではどじょうヒゲに辮髪が中国人のイメージでした。「ラーメンマン」をイメージするとわかりやすいです。

辮髪は満洲人(女直人)のファッションなのです。

女性は髪は頭の上で束ねてかんざしで止めます。

時代によって多少変化はありますが、清朝を舞台にした中国ドラマに登場する髪型がジュシェン人伝統の髪型です。ただしドラマに登場する髪型は嘉慶帝以降の清朝後半の満洲人女性の髪型をモデルにしています。康煕帝時代の髪型はもっとシンプルでした。

弓がお家芸

女直(ジュシェン)人は狩猟民族らしく弓が得意でした。

日本で使われる弓(長弓)とは違います。短弓を使います。韓国ドラマで朝鮮の兵士が使っている短弓と同じです。

短弓は石器時代から世界各地で使われている武器。射程や威力では長弓に劣りますが、持ち運びしやすく扱いやすいのが特徴です。東アジアでは遊牧民族の騎馬兵や狩猟民族が使いました。ジュシェン人も短弓を好んで使った民族です。

武人は馬上で弓を使う訓練もしました。武芸といえば「弓の扱い」が一番。刀剣や槍の扱いよりもまず「弓」なのです。女直の武人は毎日弓の稽古をしました。弓の扱いが上手なのは民族の誇りだったのです。

古代中国では東の民族を「東夷」と書きました。「弓を使う民族」という意味が込められています。北東アジアに住むツングース系狩猟民族が弓を得意にしていたからです。

女真族と朝鮮人は同じ?

と、ここまで読んで「どこかで聞いたことのある内容」と思った方は勘が鋭い!

実は満洲人(女直・女真)は朝鮮人とよく似た特徴があるのです。

長白山(朝鮮名は白頭山)を祖先が降臨した聖地にしている。
弓矢が得意なのを民族の誇りにしている。
短弓が主な武器。剣よりも弓の訓練に熱心。
シャーマニズムを信じている。
カササギが縁起のいい鳥。
などなど。共通点が多いです。

満洲人と朝鮮人の祖先は同じ。少なくとも一部の朝鮮人の祖先は満州人と同じです。

とくに高句麗人の多くはツングース系民族だったと考えられるので、満洲人と変わりません。事実、ヌルハチたち女直の住んでいた場所は初期の高句麗の領土とかぶってます。

満洲人(女直・女真)の祖先は靺鞨です。その前は穢族と呼ばれていたこともあります。ユーラシア北東部に住んでいたツングース系狩猟民族のうち、朝鮮半島に進出して匈奴・モンゴル・契丹などの騎馬民族や漢民族の文化を取り入れたり、対馬海峡にのって南方から来た南方系の人々(九州・沖縄の人と同じ祖先)と混ざったり。地域ごとに様々な民族と混ざったのが朝鮮半島の人々。

一方、狩猟民族の文化を守り続けモンゴルの影響を受けたのが女直・女真。さらに明を吸収して漢民族の文化に馴染んだのが満洲人なのです。

地域によって民族の混ざり方にばらつきがあるので同じ民族とは言えなくなってるのですが。朝鮮半島北部の人たちは満洲(女真・女直)の血が濃いはずです

まとめ

女直(ジュシェン)人は長い間、自分たちの国や文字を持たず記録を残しませんでした。女直人が作った金国も滅ぼされたので詳しいことがよくわかりません。その後は部族単位の集団に分かれ、他の民族の支配下に置かれていました。

そのためどうしても周辺国や多民族から見た悪いイメージの記録ばかりが残ってしまいました。私達がドラマで見ている「女真族」は偏ったイメージで作られたものです。清朝滅亡後は中国に弾圧されたのでやはり満洲人・女直人の姿を伝える情報は限られてしまいます。

しかし女直人の記録を調べると暴力的な野蛮人ではないことがわかりました。彼らも北東アジアで普通に暮らしている民族だったのです。日本でいえばアイヌ人のような古くからの習慣を守る先住民族に近かったのですが、農耕や中華文明を取り入れてやがて清王朝を作るまでになりました。

 

参考書籍
・”大清帝国”,学研

・”大清帝国”,石橋崇雄,講談社選書メチエ

 

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