蕭国公主とは唐の第10代皇帝・粛宗の次女。
生前は寧国公主といいました。
死後、蕭国公主の称号が与えられました。
中国ドラマ「麗王別姫」では徳寧郡主・李婼(り・しゃく)の名前で登場します。
寧国公主は最初は唐国内の役人と結婚しましたが。未亡人になりました。
安史の乱で唐がウイグルの援助を受けるため、ウイグルの可汗(君主)モユンチョルに嫁ぎました。
蕭国公主は唐の和親公主(わしんこうしゅ)です。
和親公主とは中華王朝から政略結婚のために嫁がされる王女のことです。
史実の蕭国公主はどんな人物だったのか紹介します。
蕭国公主の史実
プロフィール
生年月日:720年代?
没年月日:不明
姓:李
名:不明
称号:寧国公主(ねいこくこうしゅ)→蕭国公主(しょうこくこうしゅ)
父:唐粛宗・李亨
母:
夫:鄭巽→薛康衡→モユンチョル(ウイグル・葛勒可汗)
子供:なし
彼女は皇太子・李亨の次女。
祖父は玄宗。
母は不明。
日本では奈良時代になります。
蕭国公主?寧国公主?それとも郡主?
普通は公主といえば 君主(皇帝や国王)の娘のことです。
君主の娘でない王族の娘は「郡主」と呼ばれることもあります。
皇太子・李亨の娘が「公主」と呼ばれていた可能性は低いのですが。
どのように呼ばれていたのか記録がないのでこの記事では寧国公主とします。
歴史上は 蕭国公主(しょうこくこうしゅ)と呼ばれます。
でも生前は「寧国公主(ねいこくこうしゅ)と呼ばれていました。
蕭国公主の称号が与えられるのは死後です。
2度の結婚
寧国公主は役人の鄭巽と結婚しました。
鄭巽は定州刺史 鄭宏の息子といわれます。刺史 とは地方を視察する役人です。
ところが鄭巽が死去。
寧国公主は役人の薛康衡と再婚しました。薛康衡は殿中監という役職についていました。殿中監とは宮中で皇帝の衣食住を担当する部署です。
ところが薛康衡も安史の乱の前に病死してしまいます。
寧国公主は宮廷に戻りました。
安史の乱でウイグルに嫁ぐ
755年。安禄山が反乱を起こしました。玄宗と皇太子・李亨は都の長安を脱出。
玄宗には都を取り戻す気力はなく蜀に引きこもってしまいます。
756年。皇太子・李亨は玄宗に無断で皇帝に即位・粛宗になりました。でも粛宗が率いる軍にも安禄山から都を奪回する力はありません。粛宗は北方の遊牧民国家ウイグルに援軍を求めるため、敦煌王・李承寀をウイグルに派遣しました。
ウイグルの葛勒可汗(カガン=遊牧民の皇帝)モユンチョルは協力すると約束。モユンチョルの娘を敦煌王・李承寀に嫁がせました。唐にやってきたモユンチョルの娘は毘伽(ビルゲ)公主と呼ばれました。
その後、ウイグルは軍隊を派遣。ウイグル郡を率いるのはモユンチョルの太子・ヤブク(葉護)でした。ヤブクと広平王・李俶(後の代宗、蕭国公主の兄)は義兄弟になりました。唐・ウイグル連合軍は長安と洛陽を奪還しました。
その後、モユンチョルは唐の公主をウイグルに嫁がせるように要求。
粛宗は当時未亡人になっていた娘の寧国公主をモユンチョルに嫁がせました。
寧国公主がモユンチョルの所にやってきたとき、モユンチョルは喜んで座らずに立って寧国公主を出迎えました。到着の翌日には寧国公主を可敦(カトゥン=皇后)にしました。ウイグルの国民も「唐の天子(皇帝)の娘がやってきた」と歓迎しました。
可敦(皇后)になった寧国公主でしたが、結婚生活は長くは続きません。
759年旧暦4月。結婚して8ヵ月後にはモユンチョルが死去してしまいます。モユンチョルは高齢だったのです。
太子のヤブクはこのとき何らかの理由で死亡していませんでした。
モユンチョルの死後。次男のイディジャン(移地健)が牟羽可汗(ブグカガン)に即位しました。
殉葬を断固拒否
ウイグルの習慣では可汗が亡くなると子のない妻は殉葬されます。
寧国公主には子供はいません。ウイグルの掟に従えば寧国公主は殉葬されてしまいます。
寧国公主は断わりました。
部下からは「ここに嫁いだのだからこの国の習慣に従うべきだ」と助言を受けました。
ところが寧国公主は「我が国では婿が死んだら朝夕涙を流して3年間喪に服します。今、唐の女と結婚したいなら唐の法に従わなければいけません。自分たちの法に従うなら、1万里も離れた所で結婚する必要はないのです」と反論。殉葬を拒否しました。
それでもウイグルの人々は納得しません。
寧国公主の決意は堅く、ナイフで自分の顔を傷つけ葛勒可汗の墓の前で毎日大泣きして暮らしました。
家族が亡くなったとき人々の前で顔をさらけ出して大泣きするのはウイグルのしきたりです。
寧国公主は殉葬はできないけれどもウイグルのしきたりは守りました。
中国や朝鮮など儒教国では地位の高い女性が人前で素顔をさらしたり、人前で号泣したりはしません。
そうなるとウイグルの人々も寧国公主の意志を認めるしかありません。
寧国公主を長安に送り返すしかありませんでした。
寧国公主が長安に戻ると粛宗の命令で臣下たちが門の前で寧国公主を出迎えました。
寧国公主は余生を唐で暮らし。
死後「蕭国公主」の称号が贈られました。
新しい和親公主
こうして寧国公主はウイグルを去りましたが、ウイグルと唐の同盟のためには政略結婚は続けなければいけません。
寧国公主のお供としてついてきていた荣王 李琬の娘がウイグルに残り、牟羽可汗に嫁ぎました。
ウイグルの人々は彼女のことを「小寧国公主」と呼びました。
和親公主とは
和親公主とは政略結婚のために他国に嫁がされる王女のことです。
中華王朝が征服できない強大な国がある場合や同盟を結びたい国がある場合。
中華王朝は周辺国に和親公主を嫁がせて味方になってもらいます。和親公主が嫁いだ国には中華王朝から定期的に食べ物や絹織物、酒類が与えられます。
周辺国としては単に皇帝の権威が欲しいというより和親公主とともに与えられる「利益」をあてにしている部分もあります。
その見返りとして周辺国は中華王朝を襲わないことを約束したり、援軍を送ったりします。
寧国公主(蕭国公主)はウイグルが唐に味方して反乱鎮圧するのと引き換えに嫁いだ和親公主です。
寧国公主(蕭国公主)は生涯で3度結婚し、そのどれもが短い間に夫を失っています。つくずく運のない女性です。
和親公主になった人は、現地に馴染める人もいましたし、馴染めない人もいました。不幸な生涯をおくる人もいます。
中華王朝は強大な力で大陸を支配していたように思えるかもしれませんが。王朝が続いた裏にはこうした和親公主の犠牲があったのでした。
テレビドラマ
麗王別姫 1996 演:張維娜・役名:李婼(り・しゃく)
徳寧郡主→寧国公主→回紇可賀敦
ドラマでは徳寧郡主・李婼(り・しゃく)として登場。
やがてモユンチョルと結婚、回紇可賀敦になります。
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