韓国時代劇を見ると「老論(ノロン)」「少論(ソロン)」という派閥が出てきます。粛宗期以降に存在した政治家の派閥なのですが。老論が悪役と描かれがちです。
でも実際の歴史ではドラマのように「老論=悪役・少論=正義」と単純に割り切れるものではありません。
この記事は、粛宗・景宗・英祖・正祖・純祖の流れの中で、老論と少論がどんな立場にいたのか。さらに老論が「僻派」と「時派」に分かれた経緯も紹介します。
この記事でわかること
- 老論・少論が「同じ西人」からどう分かれたか
- 老論と少論の考え方の違い(名分×安定 vs 名分×清議)
- 粛宗〜景宗〜英祖〜正祖〜純祖までの党争の流れ
- ドラマの老論・少論像と、史実での立場の違い
- 「正義を掲げる側ほど粛清に走りがち」という朝鮮後期政治の特徴
老論・少論とは?
老論(ノロン)と少論(ソロン)は、どちらも同じ両班・士林の中から生まれた派閥。
もともとは 西人(ソイン)でした。
西人の内部で人物や事件の評価のしかたが割れてできた派閥 です。
大まかに分けると、
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老論:宋時烈(ソン・シヨル)らの判断を支持。南人や一部の人物の行動をかなり厳しく裁こうとした人たち。
-
少論:宋時烈の方針や考え方疑問を持ち「そこまで南人を処罰すべきか?」とブレーキをかけようとした人たち。
というイメージです。
ドラマなどでは老論は保守派で既得権にしがみついた悪。少論は理想主義的な良心派と描かれることも多いのですが。それはあくまでもドラマのイメージであって実際に彼らがそのような方針で活動していたわけではありません。
老論・少論とは?成り立ちと名前の意味
もともと西人派だった勢力が老論と少論に分裂したのは以下のいきさつがありました。
庚申換局で西人が力を持つ
19代国王 粛宗(スクチョン)の時代。きっかけになったのは1680年の庚申換局(キョンシンファングク)でした。
粛宗が即位した当初は朝廷では南人(ナミン)が勢力を伸ばしていました。でも粛宗は大きくなった南人を警戒します。
さらに南人の領議政・許積が軍の物を私物化しているのを知って激怒します。
そこに許積の子・許堅らが仁祖の孫にあたる福昌君・福善君・福平君ら王族と結んで反乱を企てたと告発されました。
そこで粛宗が南人を政権から追いはらい西人を政権につけました。
この事件を庚申換局と言います。
南人の処分を巡って西人内部で意見対立
ところが政権を取り戻した西人の中で南人をどこまで厳しく処罰するのかをめぐって意見が対立します。
西人の有力者だった宋時烈(ソン・シヨル)たちは南人を厳しく追及しようとしました。ところが尹拯(ユン・ジュン)たちは政敵を密告や強引な捜査で追い詰めるやり方に批判的でした。
この対立には宋時烈と尹拯の個人的な関係も影響しています。尹拯はもともと宋時烈の弟子でした。でも尹拯の父・尹宣挙(ユン・ソンゴ)への評価をめぐって二人の関係が悪化。さらに学問の考え方や政治への向き合い方でも意見が合わなくなりました。
こうして宋時烈を支持する人々が老論、尹拯を支持する人々が少論と呼ばれるようになります。
「老」「少」は年齢ではなく“勢力の大小”
なぜ「老論」「少論」と呼ばれるのでしょうか?
老は年齢のことかと思ってしまいそうですが、年寄や若者という意味ではありません。
-
老論の「老」は、西人の中でより多数派・主流側になった論
-
少論の「少」は、その中で少数派にとどまった論
を意味します。
つまり勢力の大小・立場の違いを意味しているのです。決して「老人党 vs 若者党」という意味ではありません。
結果的に、
-
もともと力を持っていた宋時烈に近い主流派が老論
-
その判断に反対した反主流・批判側が少論
というになったので後から見ると
老論=保守本流、少論=それに意見したり反対する者
というイメージになりやすいというだけです。
老論と少論の対立の歴史
老論・少論の関係は「どっちが正義か」と簡単に決められるものではなく、時代ごとに立場や見え方が大きく変わっていきます。
ここではドラマでも有名な 粛宗 → 景宗 → 英祖 → 正祖・純祖 の時代ごとにどちらが主流で何をめぐってぶつかっていたのかを紹介します。
粛宗の時代
庚申換局で南人の処分を巡って老論と少論に分かれた西人でしたが。このころはまだ同じ西人の内部での争いでした。
というのも西人には南人という大きな敵がいたからです。
張禧嬪の子を巡り西人と対立:己巳換局
1689年の己巳換局では南人に対抗するため老論と少論はまとまって行動しました。
このとき粛宗は禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)が産んだ王子、後の景宗(キョンジョン)を元子にすると決めます。
西人はこの決定に反対しました。そこで粛宗は西人を追放して南人を採用。最も強く反対した老論の宋時烈には死を命じます。少論も仁顕王后の廃位には反対しています。少論系の朴泰輔(パク・テボ)は廃位に強く反対して処罰され、拷問を受けたあと亡くなりました。
その後、仁顕王后も廃位されました。
仁顕王后の復位:甲戌換局で復帰
その後、老論と少論は協力して仁顕王后の復位を目指しました。老論の金春沢(キム・チュンテク)らも復位運動に関わっています。
1694年、粛宗は南人を追放する甲戌換局(カプスルファングク)を行い、仁顕王后を王妃に戻しました。老論と少論もともに朝廷へ復帰します。
甲戌換局後は少論がやや優勢でしたが、老論も政権に参加していました。
張禧嬪を巡って老論と少論の対立が激化
南人を追放して政権をとった西人でしたが、共通の敵がいなくなるとまた老論と少論の意見が対立してきます。
仁顕王后が1701年に亡くなり、張禧嬪が王妃を呪ったとされる事件が問題になりました。
少論は張禧嬪は世子の母なので寛大な処分を求めましたが。
老論は張禧嬪の処刑を要求。粛宗は張禧嬪を処刑しました。
このあたりから世子(景宗)を守ろうとする少論と世子の外戚の張氏一族に厳しい老論の対立が目立つようになります。
でも、この段階でも西人が分裂するほど激しい対立にはなっていません。
次の王を巡って激しい対立
さらに粛宗の晩年になると「次の王をどうするのか」という問題が出てきます。
当時は禧嬪張氏の息子が世子(景宗)でした。一方で淑嬪崔氏の息子には延礽君(ヨニングン、後の英祖)がいました。淑嬪崔氏は禧嬪張氏
少論は景宗を支え老論は延礽君を支持。王位後継者を巡って対立するようになりました。
景宗:西人分裂から少論政権の老論大粛清まで
景宗の時代は王位継承問題をきっかけに老論と少論の対立が激しくなりました。
老論の働きかけで延礽君の世弟任命
1720年に景宗が即位したとき、政権の中心にいたのは老論でした。景宗には子供がいなかったので老論は延礽君を後継者にしようとします。
1721年、延礽君は王世弟になりました。
政権を握った少論が老論を攻撃:辛丑換局
さらに老論が延礽君に代理聴政を求めると景宗はあっさり認めてしまいます。
ここで少論が「まだ王が老齢でも病気でもないのに代理聴政をするのはおかしい」と強く反発しました。
景宗は代理聴政を取り消し少論の金一鏡(キム・イルギョン)らが老論を攻撃します。老論の主要人物を失脚に追い込み少論が政権を握りました(辛丑換局)。
辛壬士禍:老論四大臣の粛清
1722年には睦虎龍(モク・ホリョン)が老論が景宗を殺害して延礽君を王にする計画があったと告発します。これをきっかけに壬寅獄事が起こり、金昌集、李頤命、李健命、趙泰采ら老論四大臣が処罰されました。この一連の事件を辛壬士禍といいます。
延礽君自身にも疑いが及びましたが王世弟の地位は維持されます。1724年に景宗が亡くなると延礽君が即位し、英祖となりました。
この時期は
大義名分と正統性を掲げて、老論を“反逆予備軍”として徹底的に裁いたのは少論側
というドラマのイメージとかなり違う様子になっています。
景宗時代は景宗を支持する少論と次の王として延礽君を支える老論の対立が激しくなった時代でした。
英祖:辛壬義理と「蕩平策」・李麟佐の乱
景宗の死後、延礽君が 英祖 として即位すると老論が復帰。逆に少論強硬派の金一鏡(キム・イルギョン)や睦虎龍(モク・ホリョン)は処罰されました。
少論政権のもとで重臣を多数処刑された老論側は、「辛壬獄事は行き過ぎだった」「あのとき殺された者たちは冤罪だ」と主張して、老論四大臣の名誉回復を認めさせようとします。
蕩平策を始める
英祖は老論だけが政権を独占すると再び大きな政争が起こると考えました。
そこで老論と少論のどちらか一方だけを採用するのではなく、両派の穏健な人物を登用しようとします。これが英祖の蕩平策です。
少論の趙文命(チョ・ムンミョン)や宋寅明(ソン・インミョン)など、英祖を認める穏健派は政権に参加しました。少論全体が英祖の敵だったわけではありません。
1728年 李麟佐の乱
ところが少論強硬派の一部は英祖を認めませんでした。
彼らは景宗の死が疑しいと主張。英祖の即位そのものを問題にしました。そして南人の一部と協力して1728年に李麟佐(イ・インジャ)の乱を起こします。
反乱軍は密豊君(ミルプングン)李坦を新しい国王として擁立しようとしました。清州を占領しましたが官軍に敗れて反乱は鎮圧されます。
この事件で少論強硬派は大きな打撃を受けました。ただし少論の穏健派には反乱鎮圧に協力した人物もいます。そのため英祖は少論全体は排除せずに蕩平策を続けました。
老論四大臣の名誉回復
1740年。英祖は辛壬義理で処刑された老論四大臣の名誉回復を認めました。老論と少論の争いの一つが片付いたわけですが。これで老論は勢いを増して政治を主導していくことになります。
羅州掛書事件で少論がさらに衰える
1755年には羅州掛書事件(ナジュ・ケソ事件)が起こりました。
羅州に英祖の政治を批判する文書が掲げられ、調査の結果、少論系の人物による反逆事件として処理されました。これに関連して多くの人物が処罰され少論は政治的な力をさらに失います。
この事件以後、老論が優位になります。
思悼世子事件での老論と少論
思悼世子事件の事件にも老論と少論は関わっています。
1749年。英祖は思悼世子に代理聴政を任せました。
思悼世子は辛壬義理については父と違う考えをもっていて少論に同情的でした。老論派その思悼世子が王になれば老論四大臣の名誉回復は撤回されるのではないかと恐れます。そこで老論の一部・老論南党は思悼世子に厳しい態度を取るようになります。少論の穏健派は思悼世子を支えました。老論の洪鳳漢も思悼世子の妻の父ということもあり、思悼世子を支えていました。
英祖が厳しすぎたこともあり親子の関係は悪化。思悼世子は精神を病んで奇行を行うようになり。1762年閏5月、英祖は思悼世子を廃して庶人として米櫃に入れるよう命じました。
思悼世子を巡っては老論と少論の対立というより、思悼世子個人をどう思うかで対応も変わっていました。親子の関係と世子の精神状態の悪化もあり。単純に老論対少論では割り切れません。
英祖後半:争いは老論内部の対立へ
思悼世子(サドセジャ)が1762年に亡くなった後も、老論と少論の違いは残りました。ただし、このころから政治対立は老論対少論というより、思悼世子をどう評価するかが新しい問題になります。
老論内部でも考えの違いが生まれて後の時派・僻派の対立につながっていきました。
英祖は世子を憐れんだものの、死なせた自分の判断そのものは取り消しませんでした。そのため英祖の処分を正当なものとして受け入れることが政界で重要になります。老論の中でも思悼世子に厳しかった勢力はこの立場を強く支持しました。
一方、少論や南人には思悼世子に同情的な人物が多くいました。英祖のもとで活動を続ける少論もいました。
正祖の時代:論内部の「僻派 vs 時派」対立
思悼世子の息子・正祖(チョンジョ)が即位すると、思悼世子をどう扱うかが重要になります。
正祖は即位直後に「私は思悼世子の息子である」と宣言して、父の名誉を高めようとします。ここで思悼世子問題をめぐる政治対立が続きます。
少論や南人、それに老論の一部は思悼世子に同情して正祖による父の名誉回復に比較的協力的でした。
反対に英祖による思悼世子処分の正当性を強く守ろうとする人物もいました。
老論が分裂する
思悼世子の死後、老論内部では洪鳳漢(ホン・ボンハン)を支持するか攻撃するかでも争いが起きました。洪鳳漢は思悼世子の妻・恵慶宮洪氏の父で正祖の外祖父です。
そのため正祖時代になると老論内部にも正祖に協力する人物と、正祖の思悼世子に対する政策を警戒する人物が存在するようになります。
この対立が
- 時派(シパ)
正祖の政策に比較的協力し、思悼世子の名誉回復にも理解を示す勢力 - 僻派(ピョクパ)
英祖の処分の正当性を重視し、思悼世子の名誉回復が進みすぎることを警戒する勢力
という対立として現れました。
ただし時派・僻派という呼び方がはっきり使われるようになるのは正祖時代の後半です。
正祖の後半は王を支持する時派が優勢でした。
純祖:派閥対立は衰え勢道政治へ
純祖(スンジョ)の時代になると、正祖後半まで続いた時派と僻派の対立に決着がつき、その後は安東金氏など有力な外戚家門が政権を握る勢道政治へ移っていきます。
そのため、老論・少論という党派そのものの重要性も次第に小さくなりました。
1800年 純祖即位、僻派が政権を握る
1800年に正祖が亡くなると純祖は11歳で即位しました。
幼い純祖に代わって政治を行ったのが英祖の継妃だった貞純王后(チョンスンワンフ)金氏です。貞純王后は僻派と近く垂簾聴政が始まると僻派が政権を握りました。
正祖時代に力を持っていた時派は攻撃されます。
1801年の辛酉邪獄ではカトリック信者への大規模な弾圧が行われましたが、政治的には南人や時派を排除する意味も持っていました。正祖に重用された蔡済恭系の南人も大きな打撃を受けます。
純祖初期は、
貞純王后・僻派 vs 正祖を支えた時派・南人
という対立でした。
1804~1806年 純祖の親政と僻派の失脚
1804年。貞純王后が垂簾聴政を終えて純祖の親政が始まりました。
純祖の王妃・純元王后は安東金氏の金祖淳(キム・ジョスン)の娘でした。金祖淳は正祖から純祖を託された人物で時派の中心人物です。
王妃の父に金祖淳の影響力が強まり、1806年には僻派が政界から排除されました。
これによって正祖末期から続いていた時派対僻派の争いは時派側の勝利という形でほぼ決着します。
ところが「時派政権」の天下にはなりませんでした。
派閥より有力家門が力を握る時代へ
時派にはもともと老論だけでなく少論など様々な出身者がいました。しかし金祖淳をたち安東金氏が王妃の実家として影響力を強めると、政治は党派同士の争いから有力な家門同士の争いへ変わっていきました。
安東金氏そのものは老論です。でも彼らは「老論の利益」のために活動を下わけではありませんでした。
同じ老論系でも安東金氏と対立する家門は排除されました。
そのため、
老論 対 少論
という粛宗~正祖時代の党争から、
安東金氏などの有力外戚家門が王室との婚姻関係を利用して政権を握る勢道政治
へ争いの種類が変わっていきました。
安東金氏の影響力が強くなりすぎるのを警戒した純祖は息子の孝明世子(ヒョミョンセジャ)に代理聴政を任せました。孝明世子は人事を改め王権を強めようとしました。
孝明世子の妻は豊壌趙氏の趙万永の娘だったので豊壌趙氏も勢力を伸ばすことになります。ところが孝明世子は1830年、21歳で亡くなりました。純祖自身も1834年に亡くなり、孝明世子の息子で幼い憲宗が即位します。
こうして安東金氏や豊壌趙氏など有力家門とそれに協力するもの達が力をもつ時代になります。
老論・少論はどうなった?
この時期になても老論と少論は消滅したわけではありません。でも派閥としてのまとまりはありません。
政界の中心にいたのは老論系の家門でしたが、
その老論内部で、
安東金氏
豊壌趙氏
その他の有力家門
が競争するようになります。
少論も残っていましたが景宗時代のようにまとまって老論と政権を争える状態ではなくなりました。
こうして派閥同士が争う時代は終わったのでした。
勢道政治と安東金氏についてはこちらの記事をご覧ください
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ドラマに出てくる老論・少論像と、史実のズレ
韓国時代劇に出てくる老論(ノロン)・少論(ソロン)は、だいたい
-
老論=権力にしがみつく悪い両班、身分差別の権化
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少論=民のために戦う清廉な改革派、主人公の味方
というステレオタイプな形で描かれることが多いです。視聴者にとっては分かりやすいのですが、史実とはかなりギャップがあります。
実際の歴史では、
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景宗期には少論が政権を握り、老論を大規模に粛清(辛壬獄事)している
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英祖期以降は老論の中にも穏健派と強硬派が分かれ、少論や南人の一部と組んで王を支える人々もいた
-
正祖・純祖の頃には、そもそも対立の軸が「老論 vs 少論」ではなく
僻派 vs 時派 に移ってしまう
など、「どちらが善でどちらが悪」という単純な色分けはできません。
なので、ドラマを見るときのコツとしては、
画面上では「老論=悪役」「少論=正義側」として演出しているけれど、
実際の歴史では時期ごとに立場が入れ替わり、どちらの陣営にも“まっとうな人”も“かなりヤバい人”も混ざっていた
くらいの感覚で受け止めておくと、史実とのギャップが少なくなりなります。
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