中国ドラマ「王女未央」に登場する李長楽(りちょうらく)は北魏の文成帝の側室。文成元皇后がモデルです。
李皇后(りこうごう)ともいいます。
李皇后は美人だったといわれます。
文成元皇后は献文帝の母です。後に元皇后と追尊されて皇后扱いになりました。
史実の文成元皇后はどんな人物だったのか紹介します。
文成元皇后の史実
生年月日:不明
没年月日:456年
国:北魏
姓:李(り)
称号:貴人→元皇后(追尊)
父:李方叔(済陰郡太守)
夫:文成帝
子供:獻文帝
彼女は北魏の第4代皇帝・文成帝の側室です。
いつの時代?
北魏は5世紀ごろ、古代中国の五胡十六国時代から南北朝時代に存在した国。
三国志で有名な魏(曹魏)と区別するために北魏または元魏と呼びます。
漢や三国志時代の後、隋・唐の前の時代です。このころの中国大陸は統一された強い国がなく、いくつかの国に分かれて争っていた時代でした。
日本では古墳時代。正確な年代はわかりませんが、大和朝廷の勢力範囲を拡大した仁徳~雄略天皇の世代に近いようです。河内(大阪府)で大きな古墳が作られていた時代です。
朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っていた時代でした。
おいたち
父・ 李方叔は南宋の済陰郡太守をしていました。古代中国で太守といえば小さな国の国王並の権威がある要職でした。済陰郡は現在の中国山東省のあたりになります。
当時の南宋は北魏と戦争していました。
450年。北魏の永昌王拓跋仁が済陰郡に攻めてきて、李一族は捕らえられました。李一族は北魏に連れて行かれます。拓跋仁のもとで暮らすことになりました。
453年。拓跋仁が長安で処刑されました。李一族は北魏の都・平城の宮殿に連れて行かれました。
李氏は文成帝の側室になりました。文成帝は李氏の美しさに魅了され情熱的に愛したといいます。
454年。拓跋弘(後の献文帝)を生みました。
側室でも位の高い貴人になりました。
息子が皇太子になったので処刑?
456年。拓跋弘(後の献文帝)が皇太子になりました。
ところが母親の李氏は子貴母死の制度によって処刑されてしまいます。
子貴母死とは北魏にあった習慣です。
皇帝の息子が太子(皇帝の後継者)になると、その生母は処刑されるのです。これは皇帝の母方の一族(外戚)が政治に口出しをして、政治が外戚によって操られるのを防ぐためでした。
実際には家庭内のトラブルもあって処刑されることもあったようですが、子貴母死の制度で死亡したことになってる人もいるようです。
あまりにも残酷な制度だというので北魏でも途中からなくなります。
残された拓跋弘は馮太后が育てました。
文成帝が死去すると李貴人の産んだ献文帝が即位しました。
李貴人は献文帝の即位後、皇后の位を送られました。元皇后とよばれます。
文成皇帝時代の元皇后という意味で文成元皇后ともいいます。
献文帝のの妃も李皇后(思皇后)といいますが別人です。
ドラマ
王女未央 2016年、中国 演:李心艾 役名:李長楽
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