李石堅(イ・ソッキョン)は昭顕世子の息子です。慶安君ともいいます。
昭顕世子は謎の死をとげましたが、その後、正室の嬪宮姜氏が処刑されたり息子たちが流罪になりました。昭顕世子の息子の中で唯一生き残り成人したのが慶安君なのです。
史実の慶安君はどんな人物だったのか紹介します。
慶安君(石堅:ソッキョン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1644年
没年月日:1665年
名前:李石堅(イ・ソッキョン)
称号:慶安君
父:昭顕世子
母:嬪宮姜氏
妻:金海許氏
子供
臨昌君ほか
彼が生きたのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に16代仁祖~18代顕宗の時代です。
日本では江戸時代の人になります。
おいたち
1644年。清の瀋陽で産まれました。
父は昭顕世子。母は嬪宮姜氏
二人の三男になります。
昭顕世子は人質として清に送られ、清の副首都ともいえる瀋陽で生活していました。そのときに産まれたのが石堅です。
1645年。昭顕世子とその家族は朝鮮に戻りました。
直前には清が明を滅ぼしていました。朝鮮が明に味方するのを防ぐため朝鮮から人質をとっていましたが、明がなくなったので人質をとる必要がなくなったのです。
ところが、帰国してわずか2ヶ月後に昭顕世子が死亡していまいます。病死とされていますが、毒殺されたともいわれます。清や西洋の文化に友好的だった昭顕世子は仁祖や朝鮮の重臣たちからは快く思われていませんでした。そのため昭顕世子を排除しようという動きが朝鮮国内にあったようです。
その後、鳳林大君(後の孝宗)が世子になりました。
1646年。母の嬪宮姜氏が死罪になりました。死薬を飲み死亡したのです。
嬪宮姜氏が仁祖の食事に毒を入れたのが死罪の理由ですが、貴人趙氏や昭顕世子を快く思わない勢力の陰謀だといわれます。
母の死後、残された三人の息子、石鐵(ソクチョル)、石磷(ソクリン)、石堅(ソッキョン)は済州島に島流しになりました。
1648年。長男の石鐵が死亡。次男・石磷は病気で死亡しました。
石堅だけは生き延びました。
1649年。仁祖が死亡して孝宗が即しました。
1650年。江華島に移されました。
孝宗は石堅の待遇を良くすることは認めましたが、釈放はなかなか認めませんでした。石堅が釈放され王族として復帰すると自分の立場が悪くなると考えていたからです。
孝宗は石堅の身分を王族に戻すように主張する重臣を処分しました。
しかし重臣たちの要求は止まりません。
1655年。ついに石堅は釈放されました。しかし王族への復帰はまだです。
1659年。孝宗が死亡して顕宗が即位しました。
王族としての身分を回復
1659年。慶安君の称号を与えられ、承憲大夫(正二品)の官位も授けられました。
このころ、司憲府将軍・許確(ホファク)の娘と結婚しました。
1663年。長男・臨昌君が産まれます。
1665年。次男・臨城君が産まれました。しかし臨城君は若くして死亡します。
この年の春、慶安君は温泉に向かいました。ところが途中で体調が悪くなりました。家に戻って療養生活をおくりましたがよくなりません。顕宗は慶安君の病状を心配して医官の朴頵に治療させました。しかしその年の9月に死亡しました。享年21。流罪から戻ってきたものの短い一生でした。
顕宗は慶安君を救えなかったということで医官の朴頵を処分しています。
顕宗は王族としての葬儀を出すことを許しました。しかし家が貧しく立派な葬儀を行うことができませんでした。そこで顕宗は慶安君の息子たちに援助して家も与えました。
1684年。粛宗の時代、妻・金海許氏が死亡。慶安君の墓の隣に葬られました。
反乱に担ぎ出された孫の密豊君(イ・タン)
臨昌君の息子・密豊君(つまり慶安君の孫)は清に使節として行くなど役人として働いていました。
1728年。英祖の時代。少論派の李麟佐(イ・インジャ)が反乱を起こしました。李麟佐は英祖は正当な王ではないと主張して密豊君を王にしようとしたのです。昭顕世子の子孫というのが担ぎ出す理由になったようです。
しかし李麟佐の乱は鎮圧され、乱に加わった密豊君は自決しました。
こうして細々と続いていた昭顕世子の家系は途絶えてしまいます。
テレビドラマ
最強チル KBS、2008年 演:ヤン・ソミン
チュノ KBS、2010年 演:キム・ハユン
馬医 MBC、2012年 演:
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC 2013年 演:ソン・ソンミ
三銃士 tvN、2014年 演:ソ・ヒョンジン
華政 MBC、2015年 演:キム・ヒジョン
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