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「大唐流流」周王 のモデル 呉王 李恪は謀反の疑いで処刑された

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

呉王 李恪(り・かく)は唐の皇子。

2代皇帝 太宗 李世民の息子です。

母は楊妃。隋の皇帝・煬帝の娘です。

李恪は父の李世民からも可愛がられました。武芸や学問もそれなりにできたようですが。赴任先に行くのを断ったり、赴任先で問題を起こすなどわがままなところもあったようです。

兄の皇太子が廃された後は、太宗・李世民から次の皇太子にと期待されたこともありましたが。でも重臣たちの反対で実現しませんでした。

高宗・李治の時代。謀反事件に巻き込まれて処刑されてしまいます。

史実の呉王 李恪(り・かく)はどんな人物だったのか紹介します。

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呉王 李恪の史実

いつの時代の人?

生年月日:619年
没年月日:653年3月10日
享年:34

姓 :李(り)
名称:恪(かく)

国:唐
称号:長沙郡王→漢中郡王→蜀王→吳王→鬱林郡王(追封)→吳王(追封)

父:唐太宗 李世民
母:楊妃(隋煬帝の娘)

妻:楊氏(楊譽の娘)

子供:李仁、李瑋 他

彼は唐の第2代皇帝・太宗 李世民の息子。

日本では飛鳥時代になります。

唐高祖 李淵の時代

武徳元年(619年)。誕生。

祖父は唐の初代皇帝 李淵。

父の李世民は当時は秦王でした。

李泰は李世民の三男。
母・楊氏にとっては長男です。

武徳3年(620年)。李恪は「長沙郡王」になりました。

武徳9年(626年)。「漢中郡王」になりました。

626年。祖父 高祖 李淵が死去。
父の李世民が皇帝(太宗)になりました。
母の楊死は四人いる妃のひとりになりました。

唐太宗 李世民の時代

 

貞観2年(628年)。「蜀王」になりました。益州大都督に任命されましたが、9歲と幼かったので現地に赴任しませんでした。

貞観5年(631年)。 秦州刺史(甘粛天水)に任命されましたが、このときも赴任しませんでした。

貞観7年(633年)。 斉州刺史(山東斉南)に任命され現地に赴任しました。

ところが荒々しい性格の李恪は現地で違法行為を働いて叱責を受けます。

貞観10年(636年)。「呉王」になりました。潭州都督(治於今湖南長沙)になりましたが赴任しませんでした。

その後、安州都督に任命されて赴任しました。

貞観11年(637年)。 何度も農作物を踏みにじり、民衆に被害を与えたり、賭博行為を行いました。そのため御史の柳范に弾劾をおこされました。それを聞いた太宗・李世民は怒って安州総督を解任。領地を300戸を減らして安州刺史に降格しました。

なぜ皇太子になれなかったのか?

貞観17年(643年)。皇太子・李承乾が謀反の罪で廃位され。魏王 李泰も失脚しました。

李恪は隋煬帝の血を受け継ぐ良血でした。

でも唐王朝ではやはり皇后の子供が優先します。だから李承乾、李泰、李治が優先されます。李恪は側室の子の中では一番血すじがいいというだけでした。

李承乾、李泰が脱落したら次の候補は李治です。

でも太宗・李世民は李治は弱々しいので太子にするのは不安だと思いました。

そこで太宗・李世民は側近の長孫無忌に「呉王恪は、私に似て似て勇敢だ。太子にしたいと思うがどうか?」と訪ねました。

でも長孫無忌は反対しました。

太宗・李世民は李恪は「文武の才」にすぐれ「自分に似ている」と言ってかわいがっていました。でも歴史書に記録されているのは李恪は馬上での射撃が得意ということ。騎馬民族出身の李一族は伝統的に馬術や弓術が得意でした。李恪も馬に乗っての弓の射撃が得意でした。

でも父のように軍を率いる指揮官として有能だったわけではなく。個人的な技量だったようです。

文武の武は「馬に乗っての射撃が得意」なのはわかりました。でも「文」が優れているという具体的な記録はありません。赴任先での統治はあまり評判はよくありません。むしろ問題を起こしてます。

とりたてて優秀なわけではない。むしろ問題を起こしている。

それなら大人しくて問題を起こさない李治のほうがマシ(言いなりになりそうなので重臣にとっても都合がいい)。

というわけで長孫無忌たち重臣は李恪の立太子に反対しました。

太宗・李世民も李恪が可愛いけど特別有能だとは思ってなかったのでしょう。大臣に反対されると諦めました。

李恪は安州都督を解任された後も安州にいて安州刺史になっていました。太宗の死後、再び安州都督に任命されました。

唐高宗 李治 の時代

李治が即位しました。高宗 の誕生です。

永徽元年(650年)。李恪は司空・梁州都督になりました。

永徽4年(653年)。巴陵公主と李元景・李恪・高陽公主、房遺愛・薛万徹・柴令武は荊王 李元景(り・げんけい)を担いで謀反を計画。事前にばれて逮捕されました。

ところが重臣の長孫無忌(ちょうそん・むき)は房遺直を拷問にかけ「李恪が謀反に加担している」と「自白」させてしまいます。

李恪は直接謀反には加わってなかったようです。でも長孫無忌は李恪が高宗・李治の地位を脅かす邪魔な存在と判断しました。

李恪は処刑されることになりました。

李恪は処刑される前に「長孫無忌は一族もろとも滅んでしまえ!」と叫びました。

李恪の四人の息子、李仁、李瑋、李琨、李璄は嶺南に流罪になりました。

顕慶5年(659年)。鬱林郡王(親王為正一品,嗣王、郡王為從一品)に追封されました。

光宅元年(684年)。4人息子は釈放されました。

テレビドラマ の 呉王 李恪

武則天  2015年、中国  演:李解
大唐流流 2021年、中国 演:檀健次 役名:周王

 

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