柳永慶(リュ・ヨンギョン)は李氏朝鮮の重臣。
宣祖から信頼され領議政をつとめました。宣祖時代の最後の領議政です。
日本との戦争では功績をあげ、戦後は北人派の重臣として高い地位にいました。
仁穆王后(インモクワンフ)の産んだ永昌大君(ヨンチャンテグン)を世子にしようとしましたが。光海君を支持する大北派によって弾劾をおこされ死罪になりました。
史実の柳永慶はどんな人物だったのか紹介します。
柳永慶の史実
いつの時代の人?
生年月日:1550年
没年月日:1608年
名前:柳永慶(リュ・ヨンギョン)
本貫:全州 柳氏
号:春湖
父:柳儀
母:
妻:黄氏
子供:男1人
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に14代宣祖の時代です。
日本では戦国時代から江戸時代の人になります。
おいたち
1572年。科挙の文科に合格しました。
柳永慶は政治派閥の東人派に所属していました。ところが1591年ごろから東人派が分裂。南人派と北人派にわかれました。
柳永慶は北人派に所属しました。
日本との戦争で活躍
1592~1598年にかけて豊臣秀吉は明を征服するために大陸に派兵。朝鮮半島が戦場になりました(文禄・慶長の役)。
朝鮮側の呼び方は「壬辰倭乱」。でも「倭乱」は小中華思想(中国が親分、朝鮮は一番の子分、日本は朝鮮より下の身分という考え)がもとになった呼び方で「倭の反逆」という意味。
現実を無視した表現で歴史用語としては不適当ということで現在の韓国の研究者の間では「壬辰戦争」という表現も使われます。
一度目の日本軍襲来の時(文禄の役)。柳永慶は義兵を募集する役目を与えられました。朝鮮では武官の地位が低く国を守る兵士も少なく抑えられていました。だから戦争になると将兵が足りません。そこで民間から兵士を募集しました。
義兵で手柄を立てると身分が上がる(賤民が良民(平民)になれる)ので志願する人(特に賤民)も多かったのです。でも、光海君失脚後は義兵で身分が上がった元賤民は賤民に戻されました。
1593年。黄海道巡察史になりました。
海州では4500人の官軍とともに日本軍と戦い激戦になりました。この戦いで日本兵60人以上の首をとりました。
その功績で戸曹参議に任命されます。黄海道の観察使や中枢副使に昇進しました。
ところが二度目の日本軍襲来の時(慶長の役)。「家族を先に逃した」という理由で職を解かれます。
その後、兵曹参判に任命されました。
戦争のあと柳永慶は二等扈聖功臣になりました。
北人派は対日戦で中心的な役割を果たしました。正規軍や義兵を率いて勇敢に戦ったのは光海君を中心にまとまった主に北人派の人たちでした。南人派や西人派は宣祖と一緒に逃げていたのです。
そこで戦後は北人派が朝廷の主導権を握りました。柳永慶も功績が認められ地位が上がりました。
後継者問題で派閥が分裂
1602年。吏曹判書、礼曹判書、刑曹判書になりました。
右議政、 左議政をへて
1604年。領議政になりました。北人派のトップ(領袖)です。
1606年。仁穆王后(インモクワンフ)が永昌大君(ヨンチャンテグン)を出産しました。若い仁穆王后は宣祖の寵愛を受けていました。宣祖は永昌大君を可愛がっています。
すると世子を光海君にするか、永昌大君にするかで重臣たちの意見が分かれました。
もともと光海君を世子にすることは決まっていました。ところが明が光海君を世子と認めません。朝鮮の国王と世子は明の承認がないと正当な王、世子と認められません。
いつもなら朝鮮側の届け出が認められることが多いのですが。朝鮮は日本との戦いで明に助けてもらいました。明が嫌がっているものを押し通すのは難しいのではないか。という弱気な雰囲気が朝鮮の朝廷にはあったようです。
北人派は大北派と小北派に分裂しました。
光海君を世子にしたい人達が大北派。領袖は李爾贍(イ・イチョム)
永昌大君を世子にしたい人達が小北派。領袖は柳永慶です。
宣祖は永昌大君を世子にしようと思っていました。
柳永慶は宣祖の意志を尊重して永昌大君を守りました。
1608年。ところが宣祖は永昌大君を跡継ぎに決めないまま死去。
大北派が支持する光海君が即位すると、小北派は勢いを失います。
大北派の李爾贍(イ・イチョム)や鄭仁弘(チョン・インホン)から弾劾をうけます。柳永慶は慶興に流罪になり、現地で賜死(毒を飲んで死亡)になりました。
1623年。仁祖が反乱を起こして即位すると柳永慶の名誉は回復しました。
テレビドラマ
王の女 1996 SBS 演:チョン・ドンファン
華政 2015 演:チョン・チョル
「ノクドゥ伝」では柳永慶の娘としてトンジュ(本名は柳恩瑞)が登場します。でも柳永慶に娘がいた記録はありません。柳恩瑞は架空の存在です。
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