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蔡済恭(チェ・ジェゴン)・思悼世子と正祖を助けた南人派重臣

朝鮮重臣 5 李氏朝鮮の重臣

「イサン」「秘密の扉」に登場する蔡済恭(チェ・ジェゴン)は実在の人物。

思悼世子を助け、味方した数少ない人物です。思悼世子の死後は、世孫の師となり正祖即位後は正祖を支える重要な重臣となりました。

粛宗の時代に追放された南人派でしたが、正祖を支える派閥として復活しました。

史実の蔡済恭(チェ・ジェゴン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

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蔡済恭(チェ・ジェゴン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1720年
没年月日:1799年

名前:蔡済恭(チェ・ジェゴン)
雅号:樊巖(ボンアム)
本貫:平安蔡氏
派閥:南人派
父:蔡應一
母:李氏
妻:

子供
養子:蔡弘遠
庶子:蔡弘謹

彼が活躍したのは朝鮮王朝(李氏朝鮮)の21代英祖~22代正祖の時代です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

1720年 忠清南道に産まれました。
父に従って漢城(ソウル)に移住しました。

1735年(英祖11年)。15歳で儒学生となりました。

1743年(英祖19年)。科挙の文科に合格。

修撰、校理などを勤めました。

1753年(英祖29年)。湖西潜行御史に任命されました。均役法の実施状態を調べ、問題点を調べました。

弘文教義、司憲府家を経験。

思悼世子の最大の味方

思悼世子に学問を教えました。以後、思悼世子の側近になります。

かつて老論派が少論派や南人派を粛清しようとしたとき、思悼世子ができるかぎり南人派をかばったのを恩義に感じて思悼世子に仕えるようになりました。

1758年(英祖34年)。都承旨になりました。

思悼世子と英祖の仲が悪くなり、世子廃位の意見が出始めると反対。一度は廃位を撤回させることができました。

在任中に母親が死亡。職を辞任して3年間喪に服しました。

当時の両班社会では、親が死亡すると仕事を止めて3年間喪に服するという習慣があったのです。

ところが、蔡済恭が喪に服している間に思悼世子が廃位になって死亡しました。

1764年(英祖40年)。喪があけて仕事に復帰。

しかし父親が死亡して3年間喪に服しました。

1767年(英祖43年)。仕事に復帰。弘文諸学、咸鏡道観察使を歴任しました。

1769年(英祖45年)。漢城府判尹になりました。

1770年(英祖46年)。 兵曹判書になりました。

1771年(英祖47年)。 戸曹判書となって、清に向かう使者となりました。

世孫の師匠になる

1772年(英祖48年)。 世孫右賓客が設置され、世孫(後の正祖)の教育係になりました。

洪国栄(ホン・グギョン)や老論穏健派の金鍾秀(キム・ジョンス)などとは考え方は違い対立することもありましたが、世孫を守るために協力しました。

1774年(英祖50年)。平安道観察使になりました。

庶子を登用する制度を批判して、通勤途中で庶子出身者から批判されたり殴られることもありました。

兵曹判書をつとめ、英祖の深い信頼を得ました。英祖の看病を勤めたこともあります。

世孫の代理聴政が始まると戸曹判書になりました。

世孫の代理聴政に反対する鄭厚謙(チョン・フギョム)や、世孫の即位に消極的な洪鳳漢(ホン・ボンハン)を世孫の敵として弾劾しました。

正祖の時代

1776年(正祖即位年)。英祖が死去。世孫が即位しました(正祖)。蔡済恭は刑曹判書になりました。

金尙魯(キム・サンロ)、洪啓禧(ホン・ゲヒ)など思悼世子を陥れた者たちを処刑しました。

思悼世子の名誉回復を訴えました。金鍾秀(キム・ジョンス)などの反対にあい実現できませんでした。

正祖即位後は、洪国栄と共に王を守る軍隊を創設。

洪啓禧の親族が正祖を暗殺しようとしましたが、防ぎました。宮殿を守る責任者に任命されました。

1779年(正祖3年)。正祖の側近、洪国栄と対立して辞職します。

翌年、洪国栄が失脚すると礼曹判書に採用されました。

金鍾秀(キム・ジョンス)などから、洪国栄と親しかったという理由で批判されました。正祖を守るため党派を超えて協力したのだと説明しましたが、批判は収まりません。官職を棄ててソウル近郊の人徳山に籠もり隠遁生活を始めました。

1788年(正祖12年)。正祖の命令で右議政になりました。

1790年(正祖14年)。左議政になりました。領議政と右議政がない期間が3年間つづきました。

このころキリスト教が広まっていました。儒学者からはカトリック教徒への批判が起こります。蔡済恭はカトリック教徒の黙認を主張。蔡済恭自身はカトリックの教えには批判的でした。でも西洋の文化や技術に興味を持つ南人派にはカトリック教徒がいました。西洋の文化を取り入れるためにはカトリックの迫害を認めるわけにはいかなかったのです。

儒学者から弾劾をうけ一字は役職を奪われましたが、1792年には左議政に復帰しました。

1793年(正祖17年)。領議政になりました。
思悼世子の名誉回復を主張しては老論派と対立し、辞職と復職を繰り返しました。

1794年(正祖18年)。正祖の改革の総仕上げともいえる水原華城の建設に関わりました。丁若鏞の指導の元、西洋の技術を取り入れた新しい城でした。正祖が作った荘勇営が駐屯し、自給自足できる農場としての機能もあり、正祖の思い描く新しい都市のようなものでした。

蔡済恭は現場の総責任者となりました。

1798年(正祖22年)。水原華城は完成。

蔡済恭はすでに78歳。華城の完成後、役目は終わったとばかりに辞職します。正祖は引き止めましたが、蔡済恭の辞職の意志は固く。正祖は元老の立場で政治を補佐するという条件で辞任を認めました。

1799年(正祖23年)。老衰で死亡。享年79歳。

蔡済恭は数々の著書を残しました。英祖実録の編集にも関わっています。

古さと合理的を併せ持つ思想

正祖の時代、南人派は西洋の技術を学ぶのに意欲的でカトリックに改宗するものもいました。しかし蔡済恭は南人派でしたがカトリックを否定的に考えていました。

性理学(儒教の朱子学)だけが正しい考え。陽明学(朱子学よりも新しい儒教)、仏教、道教、カトリックは異端だと考えていました。外国の技術を取り入れるために、仕方なくカトリックを黙認しているという立場でした。

また蔡済恭は典型的な中華思想の持ち主でした。中国以外にも国はあるが野蛮なものばかりで、明が滅びたあとは朝鮮が中華を受け継ぐ国だと主張しました。つまり清は女真族の作った国なので中華の中心とはみていなかったのです。これは蔡済恭だけが考えていたのではなく、当時の朝鮮の知識人にはよくある考えでした。後身を育成しながら主張していたので目立つ。というだけです。

また、檀君が民族の始祖であることを主張したともいいます。当時は朝鮮人は古代中国の子孫だという考えが一般的な時代でした。檀君を認めるのは当時としては珍しい考えです。

思悼世子や世祖の味方をしたので理解のある人と描かれることが多いのですが。本人の考えは典型的な儒教(朱子学)や中華思想の持ち主でした。

でも、目的のためには考えの違う人とも協力する。という現実的な判断の出来る人だったのです。儒教の理屈にこだわり判断を謝る重臣が多いなかで、現実的な判断力が正祖には頼もしかったようです。

テレビドラマ

イ・サン 2007年 MBC 演:ハン・インス
正祖暗殺ミステリー8日 CGV 2007年 演:バク・ウン
巨商キム・マンドク KBS 2010 演:メン・ホリム
成均館スキャンダル KBS 2010 演:キム・イクテ
秘密の扉 SBS 2014 演:チェ・ウォンヒョン

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