梁懐吉(りょう・かいきつ)は北宋の4代皇帝 仁宗時代の宦官。
仁宗 趙禎の長女・福康公主に仕えた宦官でした。
福康公主は夫とは仲が悪く、公主府の管理をしていた梁懐吉と親しくなってしまいます。
しかしそれが大きな問題を引き起こす事になってしまいます。
史実の梁懐吉とはどんな人物だったのか紹介します。
梁懐吉(りょう・かいきつ)の史実
いつの時代の人?
生年:不明
没年:不明
姓:梁(りょう)
名前:懐吉(かいきつ)
父:不明
母:不明
彼が生きたのは宋(北宗)の4代皇帝 仁宗の時代です。
日本では平安時代の人になります。
生没年、両親は不明。
名前は 梁懐吉。
「宋史·公主傳」では「梁懐」と書かれていますが、宋徽宗の名前:趙吉の「吉」の使用を避けたため。
司馬光が書いた「涑水記聞」では梁懷吉になっているので「梁懐吉」が正しいです。
梁懐吉がどのような経緯で宦官になったのかは不明。
梁懐吉は内侍省の内侍でした。
内侍:本来は主人に仕える人の意味で性別は関係ありません。中国・朝鮮王朝では直接王族に使える地位の高い宦官を内侍と呼ぶことがありました。
その後、仁宗 趙禎の長女・兗国公主(えんこくこうしゅ。後の福康公主)に仕えました。
福康公主とともに公主府で暮らす
嘉祐2年(1057年)。仁宗の長女・福康公主(兗国公主から称号を変更)が李瑋と結婚。
仁宗は福康公主のために豪邸(公主府)を建ててそこに福康公主夫妻を住まわせました。
梁懐吉は福康公主の付き添い宦官として同行。公主府の管理を任されます。
梁懐吉は福康公主のお気に入りでした。
駙馬(皇帝の娘婿)の李瑋の容姿は美形ではなく。素朴な性格でおしゃべりも苦手。もともと庶民出身。李宸妃の甥なので駙馬に選ばれました。
福康公主はそんな李瑋が嫌いです。李瑋を下僕のように扱っていました。公主の乳母 韓氏も駙馬・李瑋に無礼な態度をとっていました。
福康公主は李瑋やその親といるより梁懐吉を過ごすのが好きでした。
個人差はありますが。もともと美しい顔立ちの少年が宦官になると中性的な美青年になるといいます。梁懐吉は美形で立ち振舞も気品があったようです。
福康公主が問題を起こす
嘉祐5年(1060年)。ある月夜の晩。福康公主と梁懐吉は宴会を開き、酒を飲んでいました。ところが李瑋の母の楊氏が覗き見していたのを発見。
もともと福康公主は卑しい出自の楊氏は嫌いでした。楊氏も礼儀正しい人ではありません。それでも福康公主には皇帝の娘という立場があるので表立った争いは起きていませんでした。
激怒した福康公主は楊氏に暴行を加え怪我させ、それでも怒りの収まらない公主は夜間に宮殿に向かい、父の仁宗に不満をぶちまけました。
太祖 趙匡胤(ちょう きょういん)時代からの決まりで、夜の宮殿は門を開けてはいけません。太祖 趙匡胤は弟の趙光義(ちょう こうぎ、後の太宗)が夜に訪問しても門を開けなかったくらいです。
でも仁宗は公主が開門を要求すると門を開けさせました。
重臣たちは仁宗に対して福康公主が夜間に宮殿におしかけた理由を説明するよう要求。非難も殺到します。でも仁宗は福康公主を罰したくありません。
そこで仁宗は梁懐吉たち福康公主に仕える宦官や侍女9人を別の場所に異動。梁懐吉は洛陽の離宮で掃除をさせられました。
一人になった福康公主は自殺未遂を繰り返す
嘉祐7年(1062年)。福康公主は宮殿に戻り。李瑋と別居。李瑋は衛州に左遷されました。
福康公主の乳母・韓氏が屋敷の衣服や工芸品を盗んだという理由で追放。侍女たちも解雇されました。
身近な者がいなくなった福康公主は、自殺をしようとしたり、井戸に身投げしようとしたり、宮殿への放火しようとしたりして。梁懐吉を戻すように要求しました。
困った仁宗は梁懐吉を戻しました。
梁懐吉が戻った後も福康公主の情緒不安定は収まらず、不眠症になったり夜に外に出たりするようになりました。
その後。福康公主と李瑋は離婚が成立。ところが仁宗の晩年にまた福康公主と李瑋を再婚させてしまいます。
その後、梁懐吉がどうなったのかはわかりません。
仁宗の死後、福康公主の待遇は悪くなり。福康公主の晩年にはそばで世話をする人はいませんでした。梁懐吉とも離されていたようです。
テレビドラマ
孤城閉 2020年、中国 演:邊程
少年時代:葉愷文、子役:康嘉澤、赤子:項彬浩
初登場時は「梁元亨」の名前で登場。途中で梁懐吉に変えます。
福康公主・趙徽柔に幼いころから仕え、彼女に特別な想いを持っていましたが。それが報われることはありませんでした。
「孤城閉」の原作小説では趙徽柔と梁懐吉が主人公でした。TVドラマでは趙禎と曹丹姝が中心になってしまいました。趙徽柔と梁懐吉の出番が多いのは原作の名残です。
コメント