章献明粛(しょうけんめいしゅく)皇后は宋の3代皇帝 真宗 趙恒の正室。
正式な名前は伝わっていませんが民間伝承では 劉娥(りゅう・が)と言われます。
武則天と比較されるほど権力を持った女性でした。そのため唐の武則天、漢の呂后と並んで「三大女主(女の君主)」と言われることもあります。
儒学者からは悪女のように言われることもあります。
その一方で武則天のように自分が皇帝になろうとはしなかったので「呂武(呂后と武則天)のような才能はあるが、呂武ほど悪ではない」とも言われました。
劉娥は仁宗が成人しても権力を譲らず、死ぬ直前まで権力を持っていたので権力欲は強かったようです。
夫がいたのに趙恒の妾になったのは夫が妻の劉娥を売ったからですし。侍女の子供を養子にしたのは真宗の思惑もあったでしょう。劉娥ひとりが悪いのではありません。
時代が違えば有能な政治家になったかもしれない人物です。
前回はおいたちから皇后・皇太后になるまでを紹介しました。
今回は摂政皇太后としての劉太后を紹介します。
章献明粛(しょうけんめいしゅく)皇后の史実
いつの時代の人?
生年月日:968年2月9日
没年月日:1033年4月30日
姓 :劉(りゅう)氏
名称:不明
名前は「娥(が)」といわれることもありますが、記録には残っていません。
国:宋(北宋)
地位:美人→修儀→徳妃→皇后→皇太后
称号:章献明粛 皇后
父:劉通
母:龐氏
夫:龔美(劉美)、真宗 趙恆
子供:なし
養子:仁宗 趙禎
彼女は宋(北宋)の3代皇帝 真宗の正室。
4代皇帝 仁宗の養母です。
日本では平安時代の人物になります。
章献明粛 皇后の相関図
摂政 皇太后
乾興元年(1022年)。宋の真宋 趙恒が死去。
息子の趙禎が皇帝に即位しました。仁宗の誕生です。
劉皇后が皇太后になり。楊淑妃が皇太妃になりました。劉太后は真宗の遺言で「摂政」になりました。
仁宗はまだ11歳と幼くいので劉太后が政務を行いました。
この機会に権力を得ようとした宰相の丁謂は劉太后によって排除されました。劉太后は仁宗を厳しくしつけました。仁宗は病気がちだったので楊太妃が看病していました。
仁宗は劉太后を「大娘娘」、楊太妃を「小娘娘」とよんでいました。(娘娘=母)
あるとき仁宗は風痰(ふうたん、悪寒・発熱などがありタンが出る病気)にかかりました。劉太后は仁宗がエビ蟹などの海鮮類を食べるのを禁止、食事制限をしました。でも楊太妃は密かに食べさせていました。楊太妃は「なんで私の子供にそんなにかわいそうなことをするのか」と文句をいいつつ食べさせていました。
劉太后は仁宗の生母・李氏を「順容」に任命。先帝・真宗の陵墓を番する妃のひとりに加えました。また李氏の家族に官職を与えています。
劉太后は命令に厳しく。賞罰をはっきりさせていました。一族の者を採用することはありますが、彼らを重要な役職につけて劉一族で政治を私物化することはありませんでした。
士大夫(儒学をみにつけた文官)の意見を尊重、王曾、張知白、呂夷簡、魯宗道たちを信頼していました。
劉太后は素朴さを好み。皇后のときも簡素な服装でした。皇太后になってもかわりません。
明道元年(1032年)。仁宗の生母・李氏は重い病にかかりました。劉太后は医師を派遣させて治療させました。でも助からないと判断して「宸妃」に任命。その後「宸妃李氏」は病死しました。享年46歳。
劉太后は宸妃李氏が仁宗の生母だと知られたくなかったので「宮人」の格式で葬儀を行おうと考えていました。宰相の呂夷簡の助言で妃の格式で葬儀を行い「皇太后」の冠服を着せて葬りました。
劉太后は長い間権力を持ち続け、息子の仁宗が成長しても政治の権限を渡しませんでした。でも自分が皇帝になるつもりはありません。
武則天に例えられて激怒
あるとき臣下の程琳が「武后臨朝図」(武則天を描いた絵画)を劉太后に献上したところ。劉太后は「私はそんなことは絶対にしない!」と言って絵を投げつけました。程琳は褒められると思ったようですが。劉太后は武則天のように思われるのは嫌だったようです。
それを聞いた重臣たちは劉太后は皇帝になるつもりはないのだと一安心しました。仁宗も感激して劉太后をますます大事にするようになりました。
天聖7年(1029年)。劉太后の誕生日を皇帝の誕生日「長寧節」と同じ格式で祝う勅命が出ました。臣下たちは皇太后の誕生日に皇帝にするのと同じようにひざまづいて拝礼する事になりました。
皇帝の服を着たい
明道二年(1033年)。劉太后は死期が近いと悟りました。そして死ぬまでに一度でいいから皇帝の服を着たいと思い、祖先の霊廟の前で祖先を供養する儀式を行うときに自分が皇帝の服を着ることを提案しました。
提案を受けた大臣達は騒然となり、どんな衣装にしたらいいか議論が行われました。そして皇帝の正装から剣をはずして飾りをつけた衣装が用意されました。
儀式の日。劉太后は皇帝の正装をして侍従達の案内で儀式の場に現れ儀式を行いました。その次に楊太妃が、最後に仁宗の皇后郭氏が儀式を行いました。
儀式の後、仁宗皇帝から劉太后に「應天齊聖顯功崇德慈仁保壽皇太后」の称号が贈られ政治の権限が劉太后から皇帝に渡されました。こうして劉太后の垂簾聴政は終わりました。
その後、劉太后は病重になりました。仁宗は天に祈ったり医師を派遣したりしましたが症状は改善しません。
明道2年3月29日(1033年5月11日)。劉太后が死去しました。享年64歳。
仁宗が生母の存在を知ってショック
劉太后の死後、仁宗が嘆いていると重臣が「劉太后は陛下の生母ではありません。生母は李宸妃なのですよ」と言いました。燕王は「李宸妃は劉太后に毒殺された」とまで言い出します。
仁宗は自分の生母が李宸妃だとは知らなかったのでショックを受け、李友和に李宸妃の棺を調べさせました。 その後、仁宗皇帝は李宸妃が仮安置されている場所まで行くと李宸妃が皇太后の冠と衣装をつけて葬られているのを確認。李宸妃は噂のように毒殺されたのではなく丁重に扱われていることを見てまた驚きました。
仁宗は「人々の噂はあてにならないものだ」と語り。改めて自分を育ててくれた劉太后に感謝すると共に生母の李宸妃に申し訳ない気持ちになりました。
その後、仁宗は劉太后と李宸妃の棺を正式に陵墓に移して埋葬することになりました。 出棺の日。仁宗は勅使を無視して自ら別れの儀式を行い。その後、仁宗は李宸妃の棺が安置されている陵墓まで行って「どうしたら私はあなたの恩に報いることができるでしょうか」と叫びました。
劉太后は遺言で「楊太妃を皇太后にするように。政治のことは楊太妃に相談するよう」にと言葉を残しました。
仁宗は楊太妃を「皇太后」にしました。楊太后は政治に関わることはありませんでしたが、仁宗は親孝行の意味も込めて楊太后を大切にしました。
劉太后はよく武則天と比較されますが。武則天が野心をもって自分から権力をもとうと行動したのに対して、劉太后は病気の夫を助けている間に自分が政治をする立場になってしまいました。劉太后が持つ権力はすべて真宗から与えられたものです。一度もらった権力を死ぬ直前まで息子に譲らなかったとか。皇帝の服を着たとか。侍女の息子を自分の子にしたとか。権力に執着する部分はあるものの、劉太后を支える外戚の力も弱く皇帝の権威や重臣たちに頼らないと自分の立場が維持できないのも知っていました。
武則天や漢の呂后のような残酷なことはしていません。
3代 真宗の時代に契丹(遼)との戦争が終わり。6代 神宗の時代には財政難や様々な問題が表面化して国内が混乱します。その間(40年ほど)はしばらく平和な時代が続きました。劉太后が摂政太后だったのは平和な時代の最初の10年ほど。時代に恵まれた感じもしますが。劉太后が才能のある女性政治家だったことには変わりありません。
テレビドラマ
包青天再起風雲 2019、中国 演:呂珊
大宋北斗司 2019、中国 演:何君
孤城閉 2020年、中国 演:呉越
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