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「大唐流流」盛楚令 と 盛楚俊 のモデルになった 程処亮 と 程処弼

大唐流流 5.4 隋唐 臣下・人々

中国ドラマ「大唐流流~宮廷を支えた若き女官~」に登場する盛楚令(せい・それい)と盛楚俊(せい・そしゅん)

ドラマの主人公は許凱(シュー・カイ)演じる 盛楚慕(せい・そぼ)。その弟が盛楚令と盛楚俊です。

彼ら三兄弟は唐の将軍・盛驍靖の息子たち。

ドラマの盛驍靖は架空の人物ですが、モデルになった人物がいます。

7世紀の唐の太宗・李世民に仕えた将軍・程知節です。

盛驍靖の息子の
盛楚慕(せい・そぼ)
盛楚令(せい・それい)
盛楚俊(せい・そしゅん)のモデルは。

程処黙(てい・しょもく)
程処亮(てい・しょりょう)
程処弼(てい・しょひつ)

父・盛驍靖のモデルになった程知節についてはこちらを見てください。

・程 知節の詳しい説明はこちら。

 

兄・盛楚慕のモデルになった 程処黙についてはこちらを見てください。

・程処黙の詳しい説明はこちら。

 

この記事では弟たち盛楚令・盛楚俊の紹介と

モデルになった程処亮・程処弼について紹介します。

 

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盛楚令(せい・それい)とそのモデル

ドラマの盛 楚令(せい・それい)

演:范世錡

盛驍靖の次男。
母は盛夫人。
韓妃、盛楚慕の弟。
盛楚俊の兄。

歆楠公主が好き。彼女を守るために宮中侍衛になりました。
歆楠公主も盛楚令のことが好き。歆楠公主は最初は盛楚令と傅柔が関係あると疑ってました。でも誤解はとけました。

皇帝の娘との結婚は難しかったのですが。宮中での争いの後。手柄を認められて正式に皇帝から歆楠公主と結婚を許可されます。

盛楚令のモデル 程処亮(てい・しょりょう)

名前

「旧唐書」など正式な記録では「處亮」。新字体では「処亮」

物語や文献によっては程知亮(てい・ちりょう)、程懷亮(てい・かいりょう)、程弘亮(てい・こうりょう)と書かれていることもあります。

中国では親族の間で世代の違いをはっきり区別します。日本と違って親の名前の一文字を受け継ぐことはありません。

中国や朝鮮など儒教社会では世代の区別をはっきりさせるため。下の世代が上の世代と同じ字を名前に使うのは冒涜になります。

逆に日本では親子や祖先との繋がりを大切にするので親・祖先から字を受け継ぐ習慣がありました。主従の繋がりを強めるために主君から字をもらうこともあります。

「区別」の中国・朝鮮と、「つながり」の日本の違いです。

ですから「程知節」の子は「程知亮」にはなりません。もし一族に「程知亮」という人がいたら「程知節」の兄弟か従兄弟のはずです。

逆に兄弟・同世代の親戚で一文字を共有することはあります。兄が「程処黙」なので弟の名前は「程処亮」の可能性が高いですね。でも字を揃えない家もあるので「程懷亮」や「程弘亮」の名前がおかしいとまではいえません。

当時の考え方だと、当時の王侯貴族に恋愛結婚はなく。長男か次男かは関係なく家と家の間に婚姻関係が結べればよかったのでしょう。

でも、テレビドラマでそれをすると味気ないです。なので「本人同士が恋愛関係だったから」という演出になります。

 

父は程知節(てい・ちせつ)

程処亮は程知節の次男。

貞観7年(633年)。唐太宗・李世民の11女 清河公主 李徳賢と結婚しました。
当時、清河公主は10歲でした。

皇帝の娘と結婚するということは、程知節が皇帝から信頼された重臣だから。でも、長男の「程処黙」ではなく次男の「程処亮」が結婚したのはなぜでしょうか?

記録には書かれていませんが。

長男の程処黙にはすでに妻がいて程処亮はまだ未婚だった。そして清河公主はまだ10歲と幼かったので歳の近い程処亮が選ばれた。のかもしれません。

 

同時に処亮は「駙馬都尉」の称号を与えられました。駙馬(ふま)とは「皇帝の娘の夫=婿」の意味。

さらには、左衛中郎将軍。終寧遠将軍などを務めました。

東阿縣公(盧國公由程處嗣襲爵)の爵位と領地を一千戸与えられています。

死後、昭陵に埋葬されました。

皇帝の娘婿になったことはわかりますが。それ以外は特に目立った記録はありません。とくに大きな問題もなく一生を終えたのでしょう。

ドラマ「大唐流流」の盛楚令も皇帝の娘・歆楠公主と結婚します。
ドラマの中では大きな事件に巻き込まれてしまいます。

 

盛楚俊(せい・そしゅん)とそのモデル

ドラマの盛楚俊(せい・そしゅん)

演:周大為

盛驍靖の三男。
母は盛夫人。
韓妃、盛楚慕、盛楚俊の弟。

孫霊薇が好き。

ところが孫霊薇は韓王妃を陥れるために利用され、殺害されてしまいます。

孫霊薇の仇をうつため。兄の盛楚慕や姉の夫・韓王と対立するように装い太子に取り入って東宮に入り様子を探っていました。

ところが孫霊薇の死の真相を知ってしまい太子妃によって殺害されてしまいます。

 

盛楚俊のモデル 程処弼(てい・しょひつ)

程處弼(てい・しょひつ)

程知節の三男。
母は清河崔氏。
妻:不明
子:程伯獻

右金吾将軍、汴州刺史,封廣平郡開國公に任命されました。

太宗、高宗の時代にはとくにこれといった記録はありません。

則天武后が摂政をしていた時代。
程處弼の甥が謀反に巻き込まれました。
垂拱四年(688年)。「聖母臨人,永昌帝業」(聖母は民衆の前にあり、皇帝の出世は永遠に続く)と文字が刻まれた石が「発見」されます。

程處弼は流罪になりました。その後、釈放されました。

「郎将」を13年間勤めた後。

天授元年(690年)。武則天が即位。

武則天が即位したときに「中郎将」に昇進しました。

その後、まもなく「檢校将軍」に昇進しました。

武則天が信頼する将軍になり、右金吾将軍に昇進。

武則天のために洛陽の天宮寺に像を作り、武則天や家族のために祈願しました。

死亡年はわかりません。

ドラマの盛楚俊と違って武則天の時代まで生きていたようです。

 

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