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徐熙(ソ・ヒ)契丹と交渉を行った高麗の将軍

3 高麗の重臣や人々

徐熙(ソ・ヒ)は高麗の将軍。

993年におこなわれた契丹(遼)との戦い「第一次高麗契丹戦争」では、高麗軍を率いて契丹と戦い。和平交渉もまとめました。そのときとった徐熙の堂々とした態度や、高麗に有利に思えた和平交渉を行ったことから現代でも高い評価を得ている人物です。

日本では「ソ・ヒ」と紹介されることが多いです。現代の韓国では「ソ・フィ」の発音に近いようです。

史実の徐熙はどんな人物だったのか紹介します。

 

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徐熙(ソ・ヒ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:942年
没年月日:998年

名前:徐熙(ソ・ヒ)
称号:
父:徐弼
母:平壤黄氏
妻:

子供:徐訥 ほか

彼は高麗の4代光宗~6代成宗に仕えました。

日本では平安時代になります。

おいたち

 942年に生まれました。

徐熙は厳格で几帳面な人でした。

959年(光宗11年)。広評員外郞になりました。その後、内議侍郞に昇進しました。

971年(光宗23年)。朝貢使節になって宋を訪れました。宋の太祖は検校兵部尚書という地位を与えました。名誉職のようなものですが朝貢国の使者が中華皇帝から称号を与えられるのは名誉なことでした。

982年(成宗2年)。兵官御史に任命されて西京(平壌)を訪れました。 成宗を巡幸させるために馬と鞍を与えられました。

その後、内史侍郞になりました。首都を管理する長官です。都知事みたいなものです。

第一次高麗契丹戦争が始まる

993年。高麗に契丹(当時の国名は大契丹国)が攻めてきました。

かつて契丹は高麗と国交を持とうとしましたが、高麗が拒否しました。高麗は遊牧民に服従する気はありません。しかも契丹に滅ぼされた渤海遺民を受け入れていたのでよけいに契丹に反発心があります。

逆に契丹の敵対している宋と国交を結びました。

怒った契丹は高麗と宋の国交を断絶させるため武力侵攻しました。

契丹人の蕭聡寧(しょう・こうとく)が率いる契丹軍は圧倒的な兵力で高麗に攻め込みました。前線で契丹軍を迎え撃った尹庶顔率いる高麗軍は敗退。尹庶顔は捕虜になってしまいました。

高麗朝廷は契丹軍を迎え撃つため三つの軍を編成。徐熙はそのなかのひとつ 中軍使に任命されました。

徐熙たちが率いる高麗軍は清川江に陣を敷いて契丹軍を迎え撃ちました。激しい戦いが続きました。徐熙たち高麗軍はいくつか城は占領されましたがなんとか契丹軍の南下を防いでいました。

「力攻めは割に合わない(コスパが悪い)」と判断した契丹軍の蕭聡寧は和平交渉のため使者を送ってきました。騎馬遊牧民は合理的なので苦労のわりに得られる成果が少ないと判断するとあっさりと諦めます。

契丹の使者は和平の条件に「西京(平壌)から北を契丹にわたすように」と要求しました。これを聞いた高麗朝廷は意見がわかれます。「助かるためなら領土を渡すのは仕方ない」という意見も出ました。

契丹の狙いは滅亡した渤海の遺民が作った定安国(現在の中国吉林省周辺にあった国。後渤海ともいいます)が宋と同盟するのを阻止すること。そのため鴨緑江周辺に城を作って定安国と宋の連絡を断っていました。でも高麗が宋の味方をしていては意味がありません。そこで高麗に圧力をかけて宋との関係を絶ち。宋や定安国を孤立させようとしたのです。

高麗王・成宗は徐熙を交渉役に指名。和平交渉を行わせました。

対等な立場で和平交渉を行う

徐熙は交渉のため契丹の陣営に行きました。

蕭聡寧は南北(北に座り南に向くのが上の立場)に座って交渉を提案しました。ところが、徐熙は東西に座って対等な立場での交渉を要求。いくつかのやりとりのあと蕭聡寧は徐熙の意見を認め、東西に座って交渉が始まりました。

契丹側の言い分は「高麗は新羅の後継者である。かつての高句麗の領土を占領しているので返すように」というもの。

徐熙は「高麗には高句麗の古都・平壌があり。国名も高麗(高句麗の別名)である。かつての高句麗の領土は高麗のものだ」と主張。

さらに徐熙は「高麗は契丹に服従するのが嫌なのではない。間にいる女真が邪魔しているだけだ。もし我々が女真を追い出し昔の高句麗の土地を回復して道を作れば契丹と隔てるものはない」と言いました。

さまざまなやりとりのあと、最終的に徐熙と蕭聡寧は和平交渉に合意しました。

和平の条件は
・高麗は契丹に朝貢する。
・高麗は宋の年号は使わず契丹の年号を使う。
・宋と国交断絶する。
・高麗が捕虜にした契丹兵を返す(契丹は捕虜にした高麗兵は返さない)
・契丹は高麗に鴨緑江の南側を支配する権利を認める。

でした。

徐熙のまとめた和平案は成宗に認められました。成宗は自ら礼成江まで徐煕を迎えに行き、その苦労をねぎらいました。

994年2月には大契丹国皇帝・聖宗の承認も得ました。

994~995年にかけて。徐庶が率いる高麗軍は鴨緑江の南側に攻め込み、女真を討伐しました。

その後、高麗は六州に城を設置しました。

995年。徐庶は病に倒れました。成宗は自ら徐庶を見舞いました。その命徐庶の病が治るように祈りました。

996年。徐庶はまだ体調が良くなりません。成宗は大臣に「徐庶は病気のために宮廷に仕えることができなかったので、奨学金を与えることが適当である」と言いい。恩給がでました。

998年(穆宗元年)。徐庶は死亡しました。

徐庶の功績

徐庶が契丹と交渉した目的は契丹軍を撤退させることでした。契丹軍が撤退するだけでなく領土も手に入りました。高麗としては大成功の和平案でした。

この和平案をまとめた徐庶の功績は非常に大きいものでした。

ところが。新しく手に入れた鴨緑江の南側を巡って後々問題が起こります。この地を取り返そうとする女真との争いが続くのです。李氏朝鮮時代も鴨緑江周辺の土地では女真族の襲撃が問題になります。でも女真族にも襲うだけの理由がありました。女真にとっては侵略しているのは高麗や朝鮮なのですから。

定住民と違って遊牧民は土地には無頓着です。遊牧民は牧草地にならない土地は興味ありません。しかも契丹は抵抗を続ける女真には手を焼いています。高麗が女真を討伐するなら女真の住んでる場所はどうでもいいのです。

遊牧民は土地より人が大事です。捕虜になった仲間は取り返すが、奪った捕虜は返さない。タダみたいな条件で朝貢国が増えた。敵の味方が減った。くらいに思っていたでしょう。

とはいえ。圧倒的兵力で攻め込まれたので高麗の宮廷にいる大臣や役人たちは弱腰でした。

でも戦地で戦っている徐庶は強気な態度で交渉に挑みました。実際に契丹人と接している間に契丹が本当は何を求めているのかわかったのでしょう。彼らの心理をうまくついた交渉です。

和平案には宋との断交が条件に入ってます。
でも、高麗には約束を守る気はありません。最初から嘘をついているのです。徐庶も成宗や高麗朝廷と打ち合わせした内容をもとに交渉していたでしょう。

 

現実にこのあと高麗は宋に「一緒に契丹を討ちましょう」と密使を送ります。でも「北(契丹)に対して軽率な動きはするな」と宋に断られました。宋も国を守るのが精一杯で契丹に攻め込む余裕はありません。

しかも宋と国交を保っていたことが契丹にバレてしまいます。頼るものがなくなった高麗は宋の国交を断絶しました。

 

徐庶のまとめた和平案で高麗の領土は鴨緑江が北限と決まりました。この国境は李氏朝鮮にも引き継がれ、現在の北朝鮮と中国の境にもなっています。現代にも影響を与えているのです。

テレビドラマ

千秋太后 2009年 演:イム・ヒョク

 

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