朱慈炫(しゅじげん)は南明の最期の皇太子。
明滅亡後も清に抵抗を続けていた南明勢力の皇帝・永暦帝(えいれきてい)の三男です。
中国史上では珍しいカトリック教徒の皇子です。
父・永暦帝と一緒に各地を転戦しながら清と戦っていましたが。最後は呉三桂率いる清軍に敗れて処刑されます。
史実の朱慈炫はどんな人物だったのか紹介します。
朱慈炫の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:1664年6月
姓 :朱(しゅ)
名称:慈炫(じげん)
国:大明(南明)
地位:皇太子
称号:哀愍太子
父:永暦帝(えいれきてい)
母:孝剛王皇后(こうごうおう こうごう)
彼は南明の最後の皇太子です
日本では江戸時代になります。
おいたち
生年は不明。
父は南明最後の皇帝・永暦帝。
母は 孝剛王皇后。
慈炫(じげん)は三男でした。
カトリック教徒の皇子
出生時にキリスト教の洗礼を受けて「當定」という洗礼名をもっていました。”Constantine:コンスタンティネ”と同じ意味です。ローマ皇帝のコンスタンティヌスにあやかっています。
後に慈炫は皇太子になったので中国史上洗礼をうけた最初の皇太子になりました。
永暦帝はカトリックを国教にしようと考えていました。でも儒教を信じている明の人々はキリスト教を受け入れようとしません。そこで皇子がキリスト教徒になることで普及するのを期待のたのです。
というのも、滅亡しかかっていた明をキリスト教勢力の力を借りて立て直そうとしたからです。
兄がいなくなり皇太子になる
1644年。大明は李自成に攻められて一度滅びました。生き残った皇族が南に逃れて新しい国を作り「大明」と名乗っていました。北京を都にした大明と区別するため歴史上は「南明」と呼びます。
南明は各地で清に抵抗していました。
一番上の兄・朱慈爝は清との戦いの最中に行方不明。
2番めの兄・朱慈炟は清との戦いに敗れて捕虜になりました。
そこで1651年(永暦5年)。慈炫(じげん)が皇太子になりました。
慈炫(じげん)が皇太子になった後も南明は清に負け続け、各地を放浪しました。
ビルマに落ち延びる
1659年にはビルマ(現在のミャンマー)に落ち延びました。このとき永暦帝についてきた家臣は650人程度でした。慈炫ももちろんその一人です。
永暦帝と慈炫たちはビルマ王ピエ・ミンに匿ってもらいました。
朱慈炫の最期
1662年。清軍がビルマに攻めてきました。しかも清の先方になって軍を率いているのは呉三桂でした。呉三桂はかつては明の重臣でした。李自成を倒すために満洲族の味方になり、清皇帝に仕えていました。
清軍に攻め込まれたビルマ王ピエ・ミンは永暦帝と朱慈炫を呉三桂に引き渡しました。
このとき朱慈炫は呉三桂に向かって
「逆賊め、大明を打ち負かしてどうするつもりだ?我が父子をどうするつもりだ?私をこの場でどうするつもりだ?」と罵りました。
でも呉三桂は気にしません。
1662年6月1日。呉三桂は永暦帝と朱慈炫を昆明(現在の雲南省昆明市)につれていき絞首刑にしました。火炙りにしたともいいます。
死後。台湾で清に抵抗を続けていた鄭経(鄭成功の息子)によって「哀愍太子」の諱が贈られました。
ドラマ
・龍珠伝ラストプリンセス(2017年、中国、演:茅子俊)
龍珠伝に登場する朱慈炫は設定が大幅にかわってます。まず永暦帝の実の子ではなく晋王・李定国の子です。永暦帝が呉三桂に攻められて死んだあとも生き残り、反清勢力の中心人物として活動します。最期はヒロイン李易歡をかばって深手をうけてそれがもとで死亡。
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