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与君歌:程若魚のモデル 王才人(王賢妃)とは?

与君歌 5.2 隋唐の皇后・側室

王才人は唐の第18代皇帝 武宗(ぶそう) 李炎の側室。

中国ドラマ「与君歌(よくんか)」で張予曦(チャン・ユーシー)演じる程若魚(ていじゃくぎょ)/王若泠(おうじゃくれい)のモデルになった人物です。

王才人は記録が少なく、書物によっても違う内容で伝えられていたりします。

非常に謎めいた存在なのが王才人です。

史実の王才人はどのような人物だったのか紹介します。

 

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王才人の史実

唐の武宗皇帝には王姓の側室がいたことはわかっています。

でも記録が少ないうえに書物によって内容が違っています。

安史の乱以降、唐は衰退。反乱も多発、国内の混乱で失われた資料が多く、妃嬪だけでなく皇帝の記録も少なくなっています。

後の時代の人たちは少ない情報から唐の中~末期の様子を再現しようとしましたが。資料が限られているうえに、写し間違いや解釈の違いで様々な人物像が出来上がってしまいました。

王才人もそうして様々な人物像が作られたひとりです。

一般には「新唐書」に描かれている王才人像が知られているので「新唐書」の王才人を紹介します。

 

新唐書の王才人

王才人の生年は不明。

13歳の時に歌や踊りが得意だったので宮廷に入ることになりました。

穆宗(在位:820-824年)は彼女を潁王 李瀍に与えました。

王才人は頭が良く、840年に潁王が皇帝になったときに、陰で彼を支えたと言います。

そのため武宗即位後は「才人」の称号を与えられ、次第に寵愛を受けるようになりました。

彼女は痩身で、武宗に非常によく似ていました。

武宗が苑中で狩猟を楽しむ時、王才人は必ず同行。豪華な衣装を身にまとい、皇帝と同し様に馬に乗りました。周囲の人たちは遠目には二人を見分けることができませんでした。

武宗は彼女を皇后にしようとしましたが、宰相の李徳裕は「才人には子がなく、家柄も高くないため、世間が批判するでしょう」と反対。武宗は王才人を皇后にするのを諦めました。

武宗は道教に夢中になり道士の出す薬を長年服用していました。その結果、体調を崩しました。

王才人は親しい人々に「陛下は毎日丹薬を作り、長生不死を望んでいますが、今や肌が枯れてしまい、私はひそかに心配しています」と語りました。

やがて武宗の病状が悪化。王才人は武宗を看病しました。武宗と王才人は次のような会話をしました。

武宗 「朕はもうすぐ死ぬ。君と別れなければならない」

王才人「陛下にはまだ福がありますので、そんな不吉なことをおっしゃらないでください」

武宗 「もし本当に朕の言う通りになったらどうする?」

王才人「陛下が亡くなられた後、私は殉死します」

武宗はそれ以上何も言いいませんでした。

その後、武宗が危篤に陥りました。

王才人は自分の財産を宮人たちに分け与え、皇帝が崩御したと知ると自殺しました。

他の妃たちは王才人が寵愛を受けるのを嫉妬していましたが、殉死したことには感動しました。

その後、宣宗が即位すると彼女の忠義と貞節を称え「賢妃」の称号を与え、端陵の柏城に葬りました。

他の資料では情報が少なく

「旧唐書」:武宗 王賢妃の事跡は不明。

「唐会要」:賢妃王氏、端陵に陪葬される。

とだけ書かれています。

武宗には王姓の賢妃がいて端陵に陪葬されているのは確かなようですが、詳しいことはわかりません。

「新唐書」は北宋の時代に唐の資料をもとに書かれたもの。研究者の間でも「新唐書」は脚色されているという意見もあります。

宰相 李徳裕の記録

宰相 李徳裕は武宗を支え、武宗とともに宦官や藩鎮の問題に対処した政治家です。

彼が晩年にまとめた記録「文武両朝献替記」にも武宗には王姓の側室がいたことが書かれています。でもその内容は次のような内容です。

文武両朝献替記の内容

武宗即位直後から寵愛を集めていた側室 王妃(王の正妻ではなく、王姓の妃という意味)がいました。ところが王妃は嫉妬のために武宗を怒らせてしまい、一夜のうちに命を断たれてしまいました。

そのため人々は武宗は丹薬を飲みすぎて頭がおかしくなったと恐怖しました。

そこで李徳裕は武宗を諌めたといいます。

ショッキングな内容ですが、他の記録を見ても王姓の妃がいたことは確かですし、武宗在位中に急死した側室がいたようです。

 

新唐書は脚色?

殉死?殺害?

新唐書では王氏は「殉死」したと美化(少なくとも当時の感覚では美談のはずです)されていますが、実際には丹薬の飲み過ぎでおかしくなった武宗に殺害されたのかも知れません。

武宗のあと即位した宣宗が皇室の対面を考えて王妃が殉死した記録を作って残した。そのため世間には殉死と殺害の両方の記録が残ってしまったのかも知れません。

手柄を立てたのに才人どまり?

それに王氏が武宗の即位に貢献したのなら、武宗が即位したあと「才人」どまりは変です。

家柄が低く、子がいなかった。という理由もあるでしょうが。

皇后はムリにしても、武宗ならもっと高い地位につけても良さそうです。

武宗の生前に王氏が妃の地位になっていると書いてある資料もあるのですから。

 

与君歌との共通点・違うところ

資料によっても内容の違う王氏。

与君歌の程若魚(ていじゃくぎょ)/王若泠(おうじゃくれい)と王才人/賢妃を比べてみましょう。

与君歌と共通しているところ

姓が王

程若魚(ていじゃくぎょ)の本名は 王若泠。

王才人も王若泠もどちらも姓は「王」です。

 

武宗とともに狩りに行く

ドラマでは程若魚は武宗と一緒に狩りに行きます。

王才人も武宗とともに狩りに出かけていました。

程若魚は護衛なので役目は違いますけれどね。

 

男装している

王才人は狩りに行くときは男もの服を来ていました。動きやすさを重視しているからでしょう。そのため周りの人は武宗と王才人が見分けがつかなくなるほどでした。

程若魚も護衛なので武官の服を着ています。

目的は違うと思いますがどちらも着ているのは男ものの服です。

 

武宗の死後、王氏もいなくなる

最終回のネタバレになるので嫌な人は見ないでください。

 

ドラマでは武宗は死亡。程若魚も宮中からはいなくなります。

「新唐書」の説では王才人は武宗の死後、殉死。

どちらも皇帝の死後、王氏がいなくなったことになっています。

与君歌と違うところ

宰相の娘ではない

ドラマでは程若魚は宰相の娘ですが。史実の王氏は宰相の娘ではありません。身分は低かったようです。

 

側室

王才人は武宗の即位直後から側室です。

程若魚は側室ではありません。
ですが王若泠としては・・・

 

当然・護衛ではない

ドラマの程若魚は皇帝の護衛。歴史上、女性の護衛はいないのでもちろん作り話です。

ただ唐代には、武将の服を着て護衛の真似事をしていた側室はいます。唐の後宮は規律はゆるやかだったので皇帝は妃嬪に男装させたり、宦官に女装させたりしてコスプレを楽しんでいました。

 

姉妹はいない

程若魚には姉がいます。しかも敵になっているという設定。

歴史上は王才人に姉妹がいたという記録はありません。でも記録になくてもいた可能性もありますし。

王才人には様々な説があるので、違う説を使ってもうひとりの王氏を作ることも可能です。

 

 

 

テレビドラマ

宮心計 2009年、香港 演:葉翠翠 役名:王貴妃
与君歌 2021年、中国 演:張予曦 役名:程若魚/王若泠

 

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