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普城大君(チンソンテグン)王になる前の中宗は燕山君と仲は悪くなかった?

朝鮮王族 3 李氏朝鮮の王子

普城大君は李氏朝鮮の王族。後に王になって「中宗」と呼ばれます。

普城大君は王妃から産まれた嫡流の血筋でしたが、普城大君が産まれたときには既に世子として燕山君がいたので王になるはずではありませんでした。

ところが燕山君がクーデターで失脚したため、王の座が転がり込んできます。普城大君自身はクーデターには全くかかわらず、家臣たちに言われるがまま即位しました。

結果的に兄を廃して王になった形になりましたが、普城大君自身は王になるつもりはなく、とくに燕山君とも仲は悪くなかったようです。

王になる前の普城大君はどんな人物だったのか紹介します。

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普城大君(中宗)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1488年
没年月日:1544年

名前:李懌(イ・ヨク)
称号:普城大君(チンソンテグン)、中宗(チュンジョン)
父:成宗
母:貞顕王后
妻:端敬王后慎氏 

子供

普城大君は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の9代成宗の次男。即位して11代国王中宗になります。

日本では室町時代になります。

おいたち

母・貞顕王后は成宗の3人目の王妃でした。

1480年に18歳で王妃になり、当時世子だった燕山君の母親代わりとなりました。

燕山君は実母・尹氏を7歳のとき亡くし、その直後に貞顕王后が王妃になっていました。形の上では世子は王妃の息子になりますが、既に母のいない燕山君にとっては貞顕王后は事実上の母親でした。

1488年。第9代国王成宗と貞顕王后との間に李懌(イ・ヨク)が産まれました。成宗にとっては次男になります。

貞顕王后は既に何人かの娘は産んでいましたが、貞顕王后にとっては初めての男子でした。

このとき燕山君12歳。

燕山君は幼い弟に対しては親切でした。

1494。李懌(イ・ヨク)が6歳のとき、普城大君の称号を与えられました。

このころから父・成宗は結核などの病気で寝込むことが多くなります。

兄・燕山君が王になる

1495年。成宗が死去。兄の燕山君が国王になりました。このとき燕山君は19歳。普城大君は7歳でした。

1499年(燕山君5年)。普城大君は愼守勤(シン・スグン)の娘・愼氏と結婚します。

普城大君は12歳。愼氏は13歳でした。愼氏が1歳年上です。

愼守勤の妹は燕山君の妃でした。愼守勤は燕山君に信頼されており朝廷内でも大きな影響力を持っていました。

王子は結婚すると王宮を出なければいけません。普城大君も屋敷を与えられ愼氏とともに王宮の外で暮らしました。

普城大君は王妃から産まれた王子ですから王位を次ぐ正当性があります。母が廃妃になった燕山君としては王の座を脅かす存在になる可能性がありました。しかし燕山君と普城大君は個人的には仲は悪くなかったようなので、燕山君は普城大君を殺すつもりはなかったでしょう。

燕山君としては信頼のできる外戚の娘と結婚させて宮殿の外に置いておけば邪魔にはならないと思ってのではないでしょうか。

ところが燕山君の政治に対して、士林派を中心に反感が強まります。

国王に即位・中宗になる

1506年9月2日。朴元宗(パク・ウォンジョン)、柳順汀(ユ・スンジョン)らがクーデターを起こして燕山君を廃位させました。

ところが、普城大君はクーデターの計画を知らされてはいませんでした。

普城大君の屋敷に柳順汀が兵を率いてやって来たときも、反乱軍が襲ってきたと勘違いしてしまいました。命はないと思って自害しようとしたほどです。ところが屋敷にやってきた柳順汀は兵は普城大君を迎えに来たのでした。

柳順汀たちの王として迎えたいという言葉に対して、普城大君は一旦は断ります。しかし断りきれずに王になることを引き受けます。

普城大君は柳順汀たちに守られながら王宮に入り、王として即位しました。

18歳の普城大君が即位。代代国王・中宗が誕生します。

 

 

テレビドラマ

2007年 SBS 王と私 演:ノ・ヨンハク
2011年 JTBC 仁粋大妃 演:ベク・スンド、ジュ・ニョク
2017年 KBS 7日の王妃 演:ヨン・ウジン

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