韓国ドラマ花郎(ファラン)に登場するチソ太后は実在の人物。
新羅の23代国王・法興王の娘で、23代国王・真興王(サムメクチョン)の母です。
真興王が幼くして即位したため、チソ太后は摂政になり10年近く政治を行いました。
花郎制度を作ったのもチソ太后だという説もあります。
史実のチソ太后とはどのような人物だったのか紹介します。
只召太后(チソ太后)の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:574年以降
称号:只召太后
父:法興王
母:保道夫人
夫:丘疹(葛文王)
子供
真興王(サムメクチョン)
金肅訖宗
萬呼夫人
彼が生きたのは964年~1029年。
新羅の24代国王・真興王の母です。
日本では平安時代の人になります。
おいたち
新羅23代国王・法興王と妃の保道夫人の長女として生まれました。
興王の弟・丘疹(法興王)と結婚してサムメクチョン(真興王)と萬呼夫人を産みました。
夫の丘疹(法興王)は若くして亡くなりました。
法興王には息子がいなかったため、孫のサムメクチョンに譲位して仏門にはいりました。
540年。サムメクチョンは即位して24代国王・真興王になりました。真興王はまだ7歳。最初の1年は真興王の祖母にあたる保道夫人が摂政となりました。
541年からは真興王の母・只召太后が摂政となり政治を行いました。
只召太后は将軍で政治家の異斯夫(朴伊宗または金苔宗ともいいます)、僧侶で宰相の金居柒夫(キム・ゴチルブ)らの力を借りて政治を行いました。
545年には異斯夫の提案で、金居柒夫に国史の編纂を命じました。
興輪寺を造営して仏教の発展に尽くしました。
当時の新羅は百済と同盟して高句麗と戦っていました。
551年までの間、只召太后が摂政をしたといわれます。
摂政退位後の動向は歴史書には記録がありません。
574年には仏国寺を再建したので、少なくともこのころまでは生きていたと考えられます。
花郎世紀という書物にはさらにくわしく書かれています。花郎世紀は新羅時代に書かれたとされる記録ですが、本物は交代時代には既に失われていたといわれます。歴史書現在伝わっている花郎世紀は偽物といわれます。
でも韓国では花郎世紀は人気が高く、物語の題材としても使われています。ドラマ「善徳女王」も花郎世紀の内容を参考にして作られています。
花郎世紀によると、只召太后は源花(ウォナ)制度を廃止して、花郎(ファラン)制度を始めたといいます。
自分の娘である淑明(スクミョン)と寶明(ボミョン)に、真興王を補佐するように命じました。
真興王の妃・思道王后朴氏を嫌っていたので廃位して追放しようとしました。しかし、只召太后の思惑に気づいた思道王后が真興王に訴えたので廃位されずにすんだといいます。
息子の世宗(花郎世紀にだけ登場する只召太后の息子)と美室(ミシル)が結婚するのを反対していましたが、異斯夫と相談して結婚を認めました。
美室(ミシル)が思道王后の廃妃を漏らしたことを知り追放しました。しかし世宗がひどく悲しんだので美室(ミシル)を呼び戻しました。
只召太后には多くの愛人がおり、何人もの子供がいたといいます。
ドラマ「花郎」に登場する叔明公主(スンミョン王女)もその一人。
晩年は永興寺で供養をしながら暮らしたといいます。
チソ太后の人間関係
参考までにチソ太后の夫と愛人、子供を紹介します。多くの愛人と子供がいたことになってます。花郎世紀にかかれていたものも含めると何人もの愛人と子供がいたことになります。
夫:葛文王
長男:真興王
次男:金肅訖宗(花郎世紀では金珍娘主の息子)
二花郞(4代目花郎首長)
娘:萬呼太后(三国史記では葛文王とチソ太后の娘)
異斯夫(金苔宗)三国史記では朴伊宗
息子:世宗(6代目花郎首長、花郎世紀にだけ登場)
娘:叔明公主(花郎世紀にだけ登場)
朴英失
娘:黃華公主
娘:松華公主
仇珍
娘:寶明宮主
テレビドラマ
花郎 KBS 2016年 演:キム・ジス
韓国史記 KBS 2017年 演:リュ・ミンジョン
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