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唐高宗・李治 武則天に圧倒されて存在感の薄い皇帝とは?

唐朝 5.1 隋唐の皇帝・皇子

唐高宗・李治(り・ち)は唐の第3代皇帝。

唐の領土が最大級に広がった時期の皇帝です。

東では百済・高句麗を滅ぼし、西では西突厥を服従させ領土を広げました。

もともと父・太宗の宮女だった武則天を側室にしてその後、皇后にしました。

高宗は病弱だったので武則天の政治参加する機会を与え、後の武則天の即位につながってしまいます。

気弱で影の薄い印象のある高宗ですが、史実ではどのような人物だったのでしょうか。

 

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唐高宗の史実

いつの時代の人?

生年月日:628年7月21日
没年月日:683年12月27日
享年:55

名称:李治(り・ち)
幼名:雉奴(ちぬ)
廟号:高宗
父:唐太宗 李世民
母:長孫皇后
正室:王皇后、則天大聖皇后(武則天)
側室:蕭淑妃、徐婕妤、劉宮人、鄭宮人、楊宮人など

子供:8男4女
中宗李顯、睿宗李旦など

日本では飛鳥時代になります。

おいたち

唐高宗李治は628年7月21日(貞観2年6月15日) 長安で生まれました。
父は唐の皇帝・太宗 李世民。
母は 文徳皇后 長孫氏。
九男でした。

幼名は雉奴(ちぬ)といいます。

李治には同母兄弟に皇太子・李承乾、魏王・李泰がいます。

631年(貞観5年) 李治は「普王」に任命されました。

皇太子になる

643年(貞観17年)。皇太子・李承乾は謀反の罪で廃されました。太宗 李世民は、魏王 李泰は次の皇帝にはふさわしくないと判断。 皇太子が謀反をおこす原因を作ったのは李泰でしたし、気の強い李泰が皇帝になれば兄弟を殺すかもしれない。

それに比べて李治は病弱なところがありましたが、優しくて皇帝になっても兄たちを殺すことはしないはず。と李世民は考えました。

また、長孫皇后の兄・長孫無忌の進言もあったといいます。長孫無忌は李世民の側近。長孫無忌としては李泰は言うことを聞きそうにないけれども李治なら操りやすいと考えたようです。

645年1月(貞観18年12月)。李治は皇太子になりました。

晩年、太宗 李世民は病に倒れました。心の優しい李治は昼夜看病を続けました。

649年(貞観23年)。太宗 李世民が死去。

李治は父の死を知って側近の長孫無忌にだきついて号泣しました。長孫無忌はそんな李治にしっかりするようにと叱りました。

高宗 李治が皇帝になりました。このとき22歳。

高宗の時代

650年(永徽元年)。王氏を皇后に迎えました。

653年(永徽4年)。房遺愛、高陽公主、巴陵公主、薛萬徹、柴令武が荊州王 李元景をかついで謀反を計画。長孫無忌は李元景に謀反の罪をかぶせて自害させ。房遺愛、薛萬徹、柴令武は処刑。李元景、巴陵、高陽公主は賜死になりました。

さらに長孫無忌は呉王 李恪、江夏王 李道宗、蜀王 李愔たちにも謀反の罪をかぶせて処刑しました。

高宗の地位を脅かす皇族はいなくなりました。

武則天を側室にする

李治が皇太子だったころ。
才人(正五品の宮女)だった武照(ぶ・しょう、後の武則天)と親しくなりました。

太宗の死後、武照は他の妃嬪と一緒に感業寺という尼寺に入っていました。そこで高宗と何度か会っていたといいます。

このころ後宮では王皇后と蕭淑妃が対立していました。高宗は蕭淑妃を寵愛していたようですが、王皇后は高宗が武照と会っているのを知っていたので側室にするように進めました。高宗は喜んで武照を宮中に入れることにしました。

また。別の説もあります。
太宗の死後、宮女だった武照を高宗が側室にしたというのです。武照が皇后になった時、高宗は武氏は太宗から賜ったと言ってます。高宗と太宗の間で何らかの話がついていたのかもしれません。

武照をそのまま後宮に入れると重臣たちの反発があるので、一旦、出家させて現世との縁を断ち。太宗の喪があけたところで後宮に入れたのかもしれません。

新羅を冊封国にする

650年(永徽元年)。武照が入宮したのと同じ年のことです。

新羅から使者の金法敏が来て「百済に都市を奪われたので返すように言って欲しい」と助けを求めてきました。

高宗は新羅に味方することを決め、百済王に新羅から奪った都市を返すように命令。高句麗にも「百済を助けてはいけない」と命令しました。

武則天を皇后にする

652年(永徽3年)。武照を昭儀(正二品)にしました。武照は王皇后に重巡で、 王皇后も高宗の前で武照を褒め続けました。高宗はさらに武照が好きになりました。

655年(永徽6年)。武照を大変気に入った高宗は新しく作った宸妃(皇后の次に高い地位)にしようとしました。ところが宰相の韓瑗と来済が反対。

その後、高宗と親しい者たちが「王皇后を廃して武照を皇后に」と上奏しました。皇帝の独断だと格好悪いので親しい者に上奏させるのです。

高宗は四人の重臣に王皇后の廃位について相談。長孫無忌、褚遂良は反対。于志寧は賛成も反対もせず。李勣は「これは陛下の家のことです。外の者がとやかく言う問題ではありません」と回答。

反対派が多いのですが。一人でも「賛成」と受け取れる意見を言ったので高宗は王皇后の廃位を決定。10月。高宗は王皇后と蕭淑妃の位を廃して庶人にして投獄。

11月。武照を皇后にしました。皇后になった武照はさっそく王氏と蕭氏を処刑しました。

西突厥を服従させる

657年(顕慶2年)。高宗は蘇定方・任雅相・蕭嗣業たちに西突厥を討たせました。可汗の阿史那賀魯を捕らえ。代わりの唐に従順な可汗を就かせ西突厥を傀儡国家にしました(羈縻(きび)政策といいます)。

高宗は洛陽を東の都にしました。長安も西の都として残したので。この時代以降、唐は2つの都をもつことになりました。

古い重臣を粛清

657年(顕慶2年)。褚遂良、来済たち武照の立后に反対した重臣たちが謀反の罪で訴えられました。高宗は彼らを地方に左遷しました。

659年(顕慶4年)。長孫無忌も謀反の黒幕として訴えられました。高宗は長孫無忌を黔州(貴州省)に左遷。その後も訴えが続いたので長孫無忌は現地で自害しました。

武皇后に批判的な人物をことごとく追放、処刑しました。

こうして高宗は親の代からの古い重臣を排除していきました。

李治が扱いやすいと思っていた長孫無忌にとっては予想外の展開だったでしょう。

高宗が病気になり武則天の政治参加が始まる

660年(顕慶5年)。高宗は風邪をこじらせ。めまいがひどくなって政務を行うことが難しくなってきました。

このころから武皇后が政治にかかわるようになりました。武皇后は次第に皇后の役目だけでは満足できなくなります。

百済を滅亡させる

太宗の末期ごろ百済攻めは検討はされていました。でも唐の敵は高句麗だったので後回しになっていました。新羅の熱心な救援要請で方針を修正。まずは高句麗と同盟している百済を討って高句麗を孤立させることにしました。

もちろん新羅の要請だけが理由ではなくて。その方が唐にとっても都合がいいと判断したからです。百済と新羅を比較すると新羅の方が熱心に朝貢していたので、朝貢を手抜き気味の百済を助ける理由はなくなったのです。

659年(顕慶4年)。百済に向けて軍の派遣を決定しました。

660年。百済を滅ぼしました。

滅ぼした百済から百済王の扶餘義慈(ふよ・ぎじ)とその家族、重臣たちが連行されてきました。高宗は扶餘義慈と会いました。

唐軍は残された百済の王子を支援する倭国(日本)と白江(日本側の呼称は白村江)で戦い。400隻の船を焼いて勝利しました。この戦いで百済再興の可能性はなくなりました。

661年。高句麗に出兵。高宗は父のように自ら遠征軍を指揮しようとしました。父のできなかったことを自分でやりたいと思ったのです。でも武皇后や重臣たちから辞めるように言われて中止。軍の派遣だけにとどめました。

武則天を廃皇后にしようとして失敗

このころ武皇后の影響力が大きくなっていました。

武皇后はそれまで出世できずにいた人たちの中から自分に賛成する役人を積極的に採用。名門出身官僚や儒学者たちに対抗させ。武皇后は密告制度を作り自分に都合の悪いものは処分していきました。

664年(麟徳元年)。さすがの高宗もやりすぎだと思い。宰相の上官儀(じょうかんぎ)と相談して武皇后を皇后から廃することにしました。

ところが武皇后の作った密告制度によって武皇后にバレてしまいます。武皇后に問い詰められた高宗は上官儀に責任をおしつけました。

結局、上官儀は処刑されてしまいます。上官儀と親しかった役人たちも左遷されました。

このころから高宗と武皇后をあわせて「二聖」と呼ばれるようなります。

麟徳2年(665年)。高宗は臣下や武后をつれて泰山に登り封禅の儀式を行いました。このとき突厥、于闐、波斯、天竺國、倭國、新羅、百濟、高句麗などの使節も同行しました。

高句麗を滅亡させる

666年。高句麗の淵蓋蘇文が死亡。高句麗国内で内紛がおこりました。争いに負けた淵男生が唐に亡命。

667年(乾封2年)。高宗は病気が治らず、皇太子の李弘を監國(皇帝代理)に任命しました。

667年。唐は淵男生を先頭にたてて高句麗に遠征軍を派遣しました。

668年(総章元年)。唐軍が高句麗の首都・平壌が陥落。高句麗を滅亡させました。

称号を天皇・天后にする

674年(上元元年)。皇帝・皇后の称号を、天皇・天后に変更しました。武后(武則天)の考えが働いたといわれます。

皇帝(こうてい)・皇后(こうごう)よりも天皇(てんこう)・天后(てんごう)の方が対等に近い印象を与えるといわれます(発音も似ている、現代の中国語(普通話)よりも音読みのほうが唐の時代の発音に近い)。

皇太子を処分する武后

675年(上元二年)。皇太子の李弘が急死。李弘は武后の実子ですが、自分がよいと思ったことは母に逆らってでも発言する人物でした。そのため武后に毒殺されたといわれます。

李賢が皇太子になりました。高宗と武后の息子です。

病が重くなった高宗は武后を摂政にしようとしました。すると宰相の郝處俊が反対。

武后によって政敵が排除されていき、武后に忠誠を誓うものや武后の親族が採用されました。

679年(調露元年)。皇太子・李賢の家から武器が出てきて、武后は李賢が謀反を企んでいると主張。武后は皇太子の李賢を廃するように高宗に要求しました。

李賢は廃されて庶人になり。李顕(後の中宗)が皇太子になりました。彼も高宗と武后の息子です。

吐蕃に苦戦して朝鮮半島支配を断念

高宗の病状が悪化して武后の力が高まり。皇太子が粛清されていたころ。

朝鮮半島では新羅が百済や高句麗の遺民を扇動して唐の支配に反乱を起こしました。新羅は唐に謝罪の使節を送りながらも現地では唐の駐留軍を攻撃。朝鮮半島の支配を広げていました。

唐としては新羅を討ちたいところですが、西では吐蕃(とばん、チベット)が勢力を拡大。当時の吐蕃は唐に匹敵する軍事大国でした。太宗の時代から吐蕃とは戦っていましたが、唐はよく負けています。仕方ないので太宗は公主を人質(和親公主)に出していました。吐蕃はそのくらい強かったのです。

678年。高宗は李敬玄を総大将にして18万の大軍で吐蕃を攻めさせました。ところが吐蕃に敗北。その後も唐は苦戦します。

新羅は唐の本土までは攻めてきませんが、吐蕃は攻めてきます。西突厥も油断すれば反乱を起こします。新羅の相手をしている余裕はありませんでした。唐は朝鮮半島から軍を撤退。吐蕃との戦いに集中します。

その結果、新羅の朝鮮半島統一が実現しました。唐の支配が弱まった所に渤海が誕生。吐蕃との戦いは東アジアにも影響を与えています。

戦上手の太宗ですら苦労した吐蕃相手では、病気がちな高宗や国内の支配を強めるのに夢中の武后では荷が重すぎました。

高宗の最期

弘道元年(683年)。皇太子の李顕が代理聴政を行ない、裴炎、劉齊賢、郭正が皇太子の補佐をするように命令しました。

洛陽にある離宮の奉天宮から紫微宮に戻った後、体調が悪化。大臣たちが会えないくらい寝込んでしまいます。

12月。永淳2年から弘道元年に改元。高宗は恩赦の発表を自分で読み上げるため応天門に行こうとしましたが、息切れして馬に乗れなかったので宮殿の前で読み上げました。

12月27日。病が悪化して洛陽の紫微宮で死去しました。享年55。

 

テレビドラマ

淵蓋蘇文 2006年、SBS 演:朴亨才
大祚榮 2006年、KBS 演:韓范熙
二人の王女 2012年 演:高梓淇
武則天・The Empress 2015年 演:李治廷
大唐流流 2021年、中国 演:石悅安鑫 役名:秦王
風起花抄 2021年、中国 演:趙順然(ジャオ・シュンラン)

 

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