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趙貴・宇文泰に信頼された苦労人

6.1 北朝・魏・周・斉

趙貴(ちょう き)は北魏~北周の武将。

北魏で反乱が起きたとき的に捕まりましたが、賀抜岳(がばつ・がく)に助けられ賀抜岳のもとで戦います。賀抜岳の死後は宇文泰(うぶん・たい)の配下になります。

北魏は西魏・東魏に分裂し争いが絶えない世の中でした。宇文泰に頼りにされた趙貴は各地で戦い忙しい日々をおくります。自分の領地に戻る暇もないほどでした。

ところが宇文泰の死後、宇文護と対立。殺害されてしまいます。

ところが苦労している割にはドラマではあまりいいようには描かれません。いつも独孤信の引き立て役です。

ドラマでも描かれない趙貴の姿を紹介します。

 

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趙貴(ちょう き)の史実

生年月日:不明
没年月日:557年4月2日

名前:趙貴(ちょう き)
鮮卑姓:乙弗
本貫:天水郡顕親県(現在の中国甘寧省天水市)
父:趙虔

日本では飛鳥時代になります。用明・崇峻天皇の生きた時代とほぼ同じです。

北魏時代

祖父・趙仁の代に武州(現在の内モンゴル武州県)に移り住みました。

それまでは天水郡顕親県に住んでいました。

北魏の孝昌年間(525〜528年)。北魏の北部で反乱がおこりました。武州も洗浄になりました。趙貴は村人を率いて南に避難しました。

葛栄(かつ えい)が中山を略奪したとき、趙貴は捕まりました。

528年。葛栄は北魏の将軍・爾朱栄(じしゅ・えい)と戦って敗北、捕らえられます。

反乱軍に捕まっていた趙貴は開放されました。爾朱栄は趙貴を別将に任命。

爾朱栄とともに元顥(げん・こう)と戦い手柄をたて燕楽県子の爵位を与えられました。

その後、伏波将軍・武賁中郎将に任命され。

賀抜岳(がばつ・がく)に従って関中の平定に貢献。魏平県伯の爵位と領地500戸を与えられました。

その後も昇進して鎮北将軍・光禄大夫・都督になりました。

532年。孝文帝が即位。ところが孝文帝は高歓(こう・かん)の操り人形。孝文帝は有力者の賀抜岳を高歓に対抗させました。

534年。関中を守っていた賀抜岳が侯莫陳悦(こうばくちん・えつ)の配下に切られました。侯莫陳悦を恐れて配下の武将や役人は逃げてしまいます。

趙貴は仲間たちに
「仁義を守るのは難しく、それを守れるのが君子で守れないのは悪党だと聞いたことがあります。朱伯厚も、王叔治も賀抜岳公の恩を受けました。賀抜岳公は私達を高い地位に取り立ててくれたのですよ。このままにしていいのですか」と涙ながらに訴えました。

趙貴は説得できた50人を率いて、侯莫陳悦のもとに行き降伏するふりをしました。そして賀抜岳の遺体を返してくれるようにお願いすると、侯莫陳悦は遺体を返しました。趙貴たちは賀抜岳の遺体を棺桶に入れて持ち帰り埋葬するとどうやって侯莫陳悦を倒すか相談をしました。

趙貴は宇文泰をリーダーにして侯莫陳悦を倒そうと皆に提案しました。趙貴たちの救援要請をうけて宇文泰がやってくると、趙貴を大都督に任命。宇文泰たちは侯莫陳悦を倒しました。

その後。趙貴は秦州大都督として秦州を治め、人びとから支持をえました。

北魏が西魏と東魏に分裂

534年7月。孝文帝は賀抜岳の後継者になった宇文泰を頼り洛陽を脱出しました。

高歓は孝文帝を連れ戻そうと軍を出しました。高歓は都督の韓軌に蒲坂を占領させました。

宇文泰は趙貴と梁禦たちに韓軌を討つように命令しました。

すると、黄河を渡らないうちに孝武帝が関中にきました。趙貴は車騎大将軍・儀同三司に任命され、右衛将軍を兼ねた。

洛陽に皇帝がいなくなったので高歓は元善見(孝静帝)を新しい皇帝にしました。北魏には二人の皇帝がいることになりました。

北魏は孝静帝・高歓の東魏、孝文帝・宇文泰の西魏に分かれました。

大出世

そのころ。霊州刺史の曹泥が抵抗していました。趙貴は大都督に任命され、李弼たちとともに霊州を攻撃しました。

爵位は侯に昇進。所領も500戸増えました。また西魏の文帝を擁立した功績により、爵位は公に昇進しました。まもなく岐州刺史に任命されました。

ところが宇文泰は多忙で趙貴の力を必要としていました。趙貴が赴任先の岐州に行くのを許しませんでした。

大丞相府左長史や散騎常侍を兼ねることになりました。皇帝の傍で支える役目です。

東魏との戦い

535年。梁仚定が河右で反乱を起こしました。趙貴は軍を率いて梁仚定を撃破しました。

537年。宇文泰の下で東魏と戦って、弘農、沙苑を制圧しました。

侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に任命され。中山郡公に昇進しました。雍州刺史となった。

538年。宇文泰と高歓が河橋って戦ったときには。趙貴は怡峯とともに左軍を率いましたが、戦いに敗れて退却しました。

546年。玉壁で戦う宇文泰への援軍に向かいました。この戦いで高歓を撤退させました。

趙貴は宇文泰によく仕え信頼は大きかったのですが、何度か戦で敗退しています。独孤信や楊忠ほどには戦に強くなかったようです。

東魏の北豫州刺史の高仲密が西魏に寝返りました。そこで宇文泰が軍を率いてこれを迎えようとしました。東魏と邙山で戦いになりました。このときも趙貴は左軍を率いましたが軍の統率を失って敗退。そのため西魏軍も負けてしまいました。

戦いの後。敗戦の責任をとって免官されました。そのあとしばらく大都督の肩書で軍を指揮しました。

549年。官爵が戻され、御史中尉そして 大将軍になりました。

東魏の将の高岳・慕容紹宗らが王思政を潁川で包囲しました。趙貴は東南諸州の兵を率いて救援に向かいました。

東魏軍は河をせきとめて城を水攻めにしました。西魏の援軍は王思政に近づくことができず、助けられませんでした。趙貴は仕方なく撤退します。

550年。東魏が滅亡・北斉が建国。

そのあと、柱国大将軍に任命され乙弗氏の姓を与えられました。

北方の遊牧民族の柔然が広武に攻めてきました。趙貴は柔然を撃退しました。

556年。宇文泰は制度改革を行い六官制を採用。趙貴は太保・大宗伯に任命されました。南陽郡公の称号が与えられました。

宇文泰は病に倒れます。自分の命が短いことを知ると甥の宇文護を呼び、若い息子たちのことを頼みました。

その年の間に宇文泰は死去。

 

北周の誕生

宇文護は西魏皇帝・拓跋廓に帝王の座を明け渡すよう説得(脅迫)。

拓跋廓は宇文覚に皇帝の座を譲りました。

557年。宇文泰の息子・宇文覚が天王(皇帝)に即位。国名が「魏」から「周」に変わりました。

西魏が滅亡。北周の孝閔帝の誕生です。

趙貴は太傅・大冢宰に任命されました。楚国公の称号が与えられました。

宇文護を排除しようとして殺害される

宇文護は軍事と政治的権力を独占しました。古くからの重臣たちには宇文護のやり方に不満を持つものもいました。

宇文護があまりにも横暴なので趙貴は宇文護が嫌いでした。

趙貴は独孤信に宇文護の暗殺を相談。独孤信に止められましたが、独孤信は暗殺の件は報告しませんでした。

ところがどこで計画を知ったのか宇文盛が暗殺の件を告発してしまいます。

趙貴は呼び出されて宮廷に入った所を宇文護の手下に襲われて殺害されました。

独孤信も官位を剥奪され、自害に追い込まれました。

ドラマの趙貴

楚喬伝  2017、中国、演:石剣涛
独孤伽羅 2018、中国、演:施宁
独孤皇后 2019、中国、演:冯千

 

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