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高麗 忠宣王:改革熱心な王が二度の挫折で高麗暮らしが嫌になった

1 高麗の国王

 

忠宣王は高麗の26代国王。

韓国ドラマ「王は愛する」では世子ワン・ウォンとして登場します。

幼い頃から元で人質として暮らし、王に即位後も多くの時間を元で暮らしました。

モンゴル帝国(元朝)の首都・大都(現在の北京)で暮らして高麗の家臣たちに指示を出していました。

忠宣王なりに高麗を変えようとしたようですが、忠宣王のやりかたを気に入らない家臣も多く強制的に退位させられてしまいます。

史実の忠宣王はどんな人物だったのか紹介します。

 

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忠宣王/王璋の史実

いつの時代の人?

生年月日:1275年10月20日
没年月日:1325年6月23日
享年:51

高麗名:王謜(ワン・ウォン)→王璋(ワン・ヴァン)
モンゴル名:益知礼普花(イジリブカ)
称号:忠宣王(ちゅうせんおう)
父:忠烈王
母:荘穆王后/齊國大長公主/元成公主
妻:薊国公主、也速真

子供:忠粛王(27代高麗国王)

高麗王朝の第26代国王です。
日本では鎌倉時代の人になります。

おいたち

1275年。忠烈王の長男として生まれます。王謜(ワン・ウォン)と名付けられました。後に王璋(ワン・ヴァン)と改名します。

母は元の皇帝クビライの娘・荘穆王后(齊國大長公主/元成公主ともいいます)

翌年、元に移されました。

モンゴル語でイジリブカ(益知礼普花)という名前が付けられました。「幼い牛」という意味です。

幼い頃は元の宮廷で暮らしました。高麗の王族は元で人質として暮らす決まりになっていたからです。

1288年ごろ。趙仁規(チョン・インギュ)の娘(趙妃)を妃に迎えました。

1291年。世子になりました。

1292年。元の皇族・甘麻刺(カマラ)の娘・宝塔実憐(ブッダシュリ)と結婚しました。

これより前にはすでに高麗王族・王瑛(ワン・ヨン)の娘(静妃王氏)
洪奎(ホン・ギュ)の娘(順和院妃洪氏)も妃にむかえていました。

王瑛(ワン・ヨン)の娘(静妃王氏)は貢女にされそうになっていました。そこで母・荘穆王后(元成公主)に訴えて妃にして貢女になるのを防ぎました。

1297年。母・元成公主が病気で死亡。元から高麗に帰国しました。

王璋は「母はモンゴル出身なので高麗王宮で嫌がらせを受けていたから死んだ」と信じました。

そこで、忠烈王が寵愛していた側室の無比(ムービ)を処刑。無比とつながりのある重臣達も死罪にしたり、投獄・流刑にしました。彼らが無比に近づき横暴な振る舞いをしていると考えたからです。

忠烈王は王妃の死とそのあとに続く粛清で心を痛め元に譲位をしたいと願いました。元は忠烈王の譲位を認めました。

高麗王に即位後、1年で挫折

1298年。王璋が即位、忠宣王になりました。

24歳と若い王は国内の古い悪弊を正して新しい政治を行おうとしました。しかし権門勢家(古くから力を持つ特権階級)の反対にあいます。権門勢家の誹謗中傷をうけました。

さらに、元出身の王妃・宝塔実憐(ブッダシュリ)と、高麗出身の趙妃が争い始めます。臣下たちも派閥に別れて争ったため、忠宣王は譲位に追い込まれます。

忠宣王は1年足らずで王の座を退いてしまいました。

忠宣王は世子に格下げになりました。

元に戻ってもトラブル続き

世子になった忠宣王(王謜改め王璋)は元に戻りました。しかし元に戻っても正室と側室の争いは治まりませんでした。

その後、王璋は正室の宝塔実憐(ブッダシュリ)らとともに元の都・大都で暮らしました。

さらに高麗では忠烈王を中心に王璋を世子から外して王族の王琠(ワン・ジョン)を世子にしようという動きが起こります。

そのころ王琠(ワン・ジョン)は元で人質生活を送っていました。王琠(ワン・ジョン)や彼を支持する宋邦英(ソン・バンヨン)たちは高麗と元の療法で王璋を世子から引きずり降ろそうとしました。彼らは元の要人と親しくなり、王琠を世子にする同意を取り付けようとします。

王璋は後に元の皇帝になる海山(カイシャン、武宗)、愛育黎抜力八達(アユルバルワダ、仁宗)と親しくしました。元の有力者を味方にした王璋は世子の地位を守りました。

1307年。元の皇帝・成宗が死去。カイシャン(武宗)が即位しました。王璋は武宗の即位を支持しました。

武宗と親密になった王璋は瀋陽王の位を与えられます。瀋陽王は高麗王に与えられる称号。事実上の高麗王復帰です。

王琠(ワン・ジョン)や彼を支持していた宋邦英(ソン・バンヨン)たちは元で処刑されました。

このへんの王位争いが「王は愛する」の元ネタになってます。時期が違います。

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二度目の即位では高麗を遠隔操作

1308年。忠烈王が死去。忠宣王が再び即位しました。親しかった武宗の後押しがあったようです。

王になった忠宣王は本来なら高麗に戻って政治をしなければいけないところです。ところが忠烈王はほとんど高麗には戻らず大都で暮らしました。古い貴族の抵抗にうんざりしてたのでしょう。しかし高麗を新しくしたいという思いはありました。そこで忠宣王は大都にいて高麗の家臣たちに指示を出していました。

在位期間中、高麗のいくつかの制度を改革しました。

高麗では国王の帰国をもとめる運動も起こりましたが拒否しました。

幼い頃から元で育ち、元の皇室も忠宣王を優遇したので高麗よりも元に愛着をもっていたようです。

忠宣王は高麗で暮らすことは嫌がりましたが、高麗の文化まで嫌になったのではありません。高麗から学者を呼んだり書物を取り寄せたりしていました。元にいながら高麗の文化を楽しんでいたのです。心の中では高麗を懐かしむ気持ちがあったのでしょう。

すると高麗では世子の廣陵君 王鑑を王にしようという動きがありました。そこで世子を粛清しました。かわりに次男の王燾を世子(後の忠粛王)にしました。

また、忠宣王は人事評価制度を改めました。家柄・身分よりも実力を評価する、宦官、武臣の地位を向上させようとしたのです。実力中心の人事制度は遊牧民によくみられる傾向です。忠宣王はモンゴルの影響を受けているようです。

さらに、塩の専売制度を取り入れました。

ところが制度改革で権益を失った者たちが反発しました。

特権に守られていた権門勢家の反発は大きかったのです。表向きは「モンゴル人の母を持つから」といって非難されることはあっても、権門勢家が反発する本当の理由は特権を奪われるのが嫌だったからです。

洪重慶など洪一族が訴えを起こします。元出身の宦官・方忙古台(バンマンゴテ)の反対で洪一族の訴えは挫折します。

結局、忠宣王の改革はさまざまな人々の反発を受けて挫折します。

二度目の挫折

1313年。忠宣王は高麗の重臣たちによって強制的に退位させられました。

息子の忠粛王が高麗王に即位。瀋陽王の地位は延安君 王暠(ワン・ゴ)が引き継ぎました。ところが、もともと高麗王が受けるはずだった瀋陽王の地位を分けたために、双方が正当性を主張。以後、忠粛王と延安君 王暠の争いの原因になります。

1320年。元の皇帝アユルバルワダ(仁宗)が死去。

アユルバルワダの長男・シデバラ(英宗)が即位しました。

すると高麗出身の宦官・伯顏禿古思が訴えを起こします。その結果、忠宣王は吐蕃(チベット)に流されました。モンゴル帝国内では帝位を巡って派閥争いがありました。モンゴル皇帝が変わると援助をうけていた高麗の人々の運命も変わる。といったことがよく起こります。

1323年。泰定帝が即位。赦免されて大都に戻ります。

1325年。元の首都・大都で死亡。享年51。

 

ドラマの忠宣王

王は愛する 2017、MBC 演:イム・シワン

荘穆王后(元成公主)の死と無比、彼女と親しい重臣の処刑。忠烈王の退位。

王瑛(ワン・ヨン)の娘(静妃王氏)が貢女にされそうになるのを妃にして貢女にされるのを防いだ。

世子時代の忠宣王と王琠(ワン・ジョン)の世子争い。

これらの出来事は事実です。でも忠宣王と王琠が王位を争ったのは元で生活しているとき。元にいるときはふたりともモンゴル人と同じ髪型・服装をしていました。

無比の処刑と王琠の争いは時期がずれています。

史実はドラマのイメージとはかなり違います。

ちなみに王琠(ワン・ジョン)には弟はいません。ワン・リンは架空の人物です。

 

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