耶律 罨撒葛(やりつ えんさつかつ)は遼(契丹)の皇族。
契丹(遼)の2代皇帝 太宗 耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)の次男です。
罨撒葛は父の太宗 耶律 堯骨から「太平王」の称号を与えられていました。
幼いころから一族内で争いが続き立場が危うくなりました。
兄の穆宗 耶律述律が皇帝になった後、地方に左遷され。
兄の死後。景宗 耶律明扆が即位。 罨撒葛は沙陀に逃げるのですが、景宗 耶律明扆に呼び戻され「斉王」の称号を与えられました。
しかし37歳という若さで病死してしまいます。
史実の耶律 罨撒葛(やりつ えんさつかつ)はどんな人物だったのか紹介します。
耶律 罨撒葛の史実
いつの時代の人?
生年月日:935年
没年月日:972年
姓 :耶律(やりつ)氏
名称:罨撒葛(えんさつかつ)
国:大契丹国(遼)
称号:太平王、斉王、欽靖皇太叔
父:耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)遼太宗
母:簫温(しょう・おん)靖安皇后
妻:蕭胡輦(しょう・これん)太平王妃
兄:耶律述律(やりつ・じゅつりつ)遼穆宗
子供:なし
罨撒葛が生きたのは契丹(遼)の2代太宗~5代景宗の時代です。
日本では平安時代になります。
おいたち
935年。契丹で生まれました。
父は契丹(遼)の第2代皇帝 太宗 耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)
母は靖安皇后 簫温(しょう・おん)
罨撒葛(えんさつかつ)は次男です。
同母兄に耶律述律(やりつ・じゅつりつ)遼穆宗 がいます。
母の靖安皇后 簫温は罨撒葛の誕生後まもなく感染症で死亡しました。
会同2年3月(939年)。罨撒葛は「太平王」になりました。
会同10年(947年)。父の太宗 耶律 堯骨が遠征先で病死。
罨撒葛は兄の述律や祖母の述律皇后とともに首都・上京にいました。
太宗 耶律 堯骨には述律(16歳)や罨撒葛(12歳)など何人かの息子がいますがまだ十代と若かったのであとは継げませんでした。
遠征軍にいた従兄弟の耶律兀欲が3代皇帝 世宗になってしまいます。耶律兀欲は太祖 耶律阿保機の長男・東丹王 耶律突欲 の息子です。
それに怒ったのが祖母の述律皇后でした。耶律李胡とともに挙兵します。しかし世宗の軍が優勢で降伏しました。
世宗 耶律兀欲の治世。罨撒葛は軍も権限も与えられず。甥の耶律兀欲の支配を受けました。
ところが世宗 耶律兀欲は一族の者に暗殺されてしまいます。皇族たちは太宗の息子・耶律述律(やりつ・じゅつりつ)を次の皇帝にしました。
穆宗の時代
天禄5年(951年)。兄の穆宗 耶律述律(漢名は劉璟(りゅう・けい))が即位。
皇帝の座は東丹王の家系から太宗の家系に移りました。
太平王 罨撒葛は政治に参加する機会が与えられました。
穆宗 耶律述律は横暴で人々の不満が高まっていました。太平王 罨撒葛も兄の政治に不満がありました。
そこで謀反を計画。
シャマン(巫女)の魏璘を呼んで戦勝祈願しました。
応歴3年(953年)10月。罨撒葛の謀反計画は穆宗にバレてしまいます。罨撒葛は幽閉され。その後、釈放されて西北国境の守備隊に異動になりました。要するに左遷です。
遼の北西部ではタタール(韃靼)や他の部族との争いが続いていました。タタールはもとは契丹と同じ遊牧民族。モンゴル平原の勢力争いを続けていました。
罨撒葛はここで遼の国境を守りました。
景宗の時代
応暦19年(969年)。穆宗 は臣下たちによって暗殺されました。
即位したのは 景宗 耶律明扆(やりつ・めいい)、漢名は劉賢(りゅう・けん))です。
皇帝の座は太宗の家系から東丹王の家系に移りました。2つの家系は長年皇帝の座を巡って争ってきました。また対立する家系の者が皇帝になったのです。罨撒葛は身の危険を感じた罨撒葛は沙陀(さだ)に逃亡しました。
しかし景宗は罨撒葛を許して呼び戻すと斉王(せいおう)の称号を与えました。
何度もおきた身内の争いで太宗の家系には力はありません。罨撒葛には景宗に対抗できる力はなく、再び東丹王の家系の皇帝のもとで生きることになりました。
保寧4年(972)。疽(悪性の腫れ物。または傷から細菌が入り壊死する病気) にかかって死亡しました。享年37。
死後。「欽靖皇太叔」の称号が与えられました。
罨撒葛の死後。妻の蕭胡輦が軍団の指揮を引き継ぎました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:譚凱
ドラマでは穆宗時代に遠方にとばされることはなく。ずっと兄の補佐をしていました。全体を通して主人公たちに立ちふさがるかなりの強敵として描かれています。
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