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耶律屋質・遼(契丹)の危機を救った耶律一族の長老

契丹 9 その他の国や民族

耶律屋質(やりつ・おくしつ)は遼(契丹)の皇族で大臣。

北院大王、屋質大王ともいいます。

太祖・太宗・世宗・穆宗・景宗の5人の皇帝に仕えました。

耶律屋質は冷静で有能な人物でした。遼(契丹)の建国からしばらくは一族内での権力争いが激しかった時期です。何度か一族内の対立を仲裁したり、反乱を治めたりして王朝の崩壊を防ぎました。

そのため歴代皇帝からの信頼も厚く、一族の長老格として尊敬されました。

史実の耶律屋質はどんな人物だったのか紹介します。

 

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耶律屋質の史実

いつの時代の人?

生年月日:915年
没年月日:973年

姓 :耶律屋質(やりつ・おくしつ)

国:遼(契丹)
地位:北院大王、于越

彼が生きたのは遼の初代太祖から5代景宗の時代です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

耶律屋質(やりつ・おくしつ)の家系は太祖 耶律阿保機(やりつ・あぼき)の直系ではありませんが。太祖 耶律阿保機の父の兄弟・耶律岩木の子孫になります。この家系は孟父房と呼ばれていました。孟父房も皇族のあつかいです。

年齢的には太宗 太宗 耶律堯骨より13歳ほど若く、堯骨の弟、耶律李胡の4歳年下。

戦場で部隊を率いて戦う将軍でした。

太宗 耶律堯骨(やりつ・ぎょうこつ)からの信頼が厚く、会同年間(938~947年)に惕隱(テギン)という役職につきました。惕隱とは契丹貴族の政治と宗教を担当する役職。遊牧民社会の「大臣」みたいなものです。

会同9年(946年)。太宗 堯骨が後普を滅ぼした後、病死しました。

太宗 堯骨の死後。宿衛 耶律安摶、南院大王 耶律吼、北院大王 耶律窪 たちに推される形で遠征軍にいた永康王 耶律兀欲 が皇帝を宣言。

兀欲の即位を知った述律太后は激怒。溺愛する三男の李胡を皇帝にするため挙兵しました。

兀欲たちの軍は李胡の率いる軍を撃退。すると述律太后が自ら軍を率いて出陣。人々は怖くなって「もし戦えば親子兄弟で殺し合いをすることになる」と噂し合いました。両軍はシラムレン川のほとりで睨み合いました。

もし戦えば契丹の皇族同志の殺戮が行われることにになります。耶律屋質は契丹人同士の争いを望まなかったので、必死の思いで述律太后を説得しました。

耶律兀欲と述律太后側が話し合う場を設けました。この会談でお互いに批判し合いましたが。耶律屋質は兀欲の武力も、述律太后の権威もおそれずお互いに否があると諌め、譲歩を促します。最終的に述律太后が耶律兀欲の即位を認めて和平がまとまりました。

まずと李胡は兀欲の即位を認め和睦しました。この条約を「横渡之約」といいます。

耶律兀欲は正式に皇帝(世宗)に即位しました。

しかし耶律李胡と述律太后は兀欲の正当性を認めず。李胡を即位させようと謀反を計画。耶律兀欲によって太祖の陵墓のある蘇州に移されました。

世宗 耶律兀欲の時代になったも一族内での争いは収まらず。耶律屋質は反乱の対応に追われました。

 

耶律察割の反乱を鎮圧、穆宗を即位させる

 

天禄5年(951年)。世宗は北漢の要請で後周を攻撃した後、戻ってきました。祥古山(フフホト)で宴会、出席者は酔っ払っていました。すると一族の耶律察割が反乱を計画。耶律述律に反乱に加わるように誘ってきました。耶律述律は断りました。

その日の夜。耶律察割は耶律盆都を誘って反乱を起こしました。宮殿に乱入して世宗を殺害してしまいます。宮殿に耶律屋質は脱出すると王族に異変を知らせました。

耶律屋質は皇族を集めると耶律述律を次の皇帝にしようとしました。耶律述律は即位を躊躇いましたが。耶律屋質の使者に「察割があなたを捕らえたなら貴方の命はないのですよ」と言われ即位を引き受けました。

耶律述律は耶律屋質に合流。将軍たちも述律のもとには続々と集まってきました。

耶律述律と耶律屋質は集まった兵たちとともに耶律屋質を討ち反乱を鎮圧しました。

その後。耶律述律は正式に即位しました。

穆宗の時代。

969年(応歴5年)に「北院大王」になりました。山西(山西省)の統治を任されました。

969年(応歴19年)穆宗 耶律述律が家来に殺害され。臣下たちは世宗 耶律兀欲の子・耶律明扆を即位させました。

景宗 耶律明扆の時代

969年(保寧元年)。北宋が北漢の首都・太原を攻めました。遼は北漢の援軍要請をうけて援軍を派遣。

耶律屋質が援軍を率いて白馬嶺に到着。太原の西側で篝火を焚き太鼓を鳴らしました。北宋軍は契丹軍が到着したのを知り、背後から襲われるのを恐れて撤退しました。この戦いの後、耶律屋質はその功績を認められて「于越」の称号を与えられた。

「于越」は大臣・役人の中でも最高の地位です。遼の歴史210年でも10人しかいない名誉ある役職で、遼史上2人目の于越でした。

972年(保寧4年)。北漢の皇帝・劉継元が耶律屋質にお金を献上してきました。耶律屋質はこのことを景宗 耶律明扆に報告。景宗は北漢からの貢物を受け取るように耶律屋質に指示しました。

973年(保寧5年)5月。耶律屋質が死亡。享年57歳。

遼(契丹)の安定のために尽くした一生でした。

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年、中国 演:邵兵 役名:屋質大王

 

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