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聖宗 耶律 文殊奴・契丹の全盛期を作った皇帝の誕生から澶淵の盟まで

契丹 9 その他の国や民族

遼 聖宗 耶律文殊奴(やりつ・もんじゅど)は契丹(遼)の第6代 皇帝。

耶律隆緒(やりつ・りゅうしょ)とも言います。

契丹の全盛期を築いた皇帝です。

12歳で即位したため生母・睿智蕭皇后 蕭綽が摂政になって政治を補佐しました。

聖宗 耶律文殊奴が即位するまでには契丹国内で皇位を巡る争いが続き国内は混乱していました。国外に目をむけると宋が燕雲十六州を狙っていて、宋の太宗が高麗やタングートに呼びかけて作った契丹包囲網に囲まれていました。

生母・蕭綽や韓徳讓たちのサポートをうけて国内外の問題に取り組むことになります。

宋に遠征を行い「澶淵の盟」とよばれる和平条約をむすび長い宋との戦いを終わらせました。

史実の聖宗 耶律文殊奴はどんな人物だったのか紹介します。

 

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遼 聖宗 耶律 文殊奴の史実

いつの時代の人?

生年月日:保寧3年12月27日(972年1月16日)
没年月日:太平11年6月3日(1031年6月25日)
在位期間:982~1031年

姓 :耶律(やりつ)氏
諱 :文殊奴(もんじゅど)
漢名:劉隆緒(りゅう・りゅうしょ)

国:大契丹国(遼)
地位:梁王 → 皇帝
称号: 天輔皇帝
   文武大孝宣皇帝
廟号:聖宗

父:景宗
母:睿智蕭皇后
妻:仁徳蕭皇后
  欽哀蕭皇后

子供:耶律只骨(興宗)他

彼は大契丹国(遼)の第6代皇帝です。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

保寧3年12月27日(972年1月16日)。文殊奴(もんじゅど)が誕生。

仏教徒の遊牧民の間では名前に仏+奴(男)、婢(女)を入れるのが流行っていました。仏に仕え仏の加護を願う、仏にあやかる意味があります。契丹だけでなく唐やウイグルでもこのような名前をつけるのが流行っていた時期がありました。こうした習慣が後に女真族が新しい部族名を決める時にマンジュ(文殊菩薩)を採用する原因のひとつになったと考えられます。

漢名は隆緒(りゅうちょ)。
父は遼の第5代皇帝・景宗 耶律明扆。
母は睿智蕭皇后 蕭綽。

文殊奴は景宗の長男です。

幼いころから書が好きで、10歳で詩を書けるようになりました。

乾亨元年(979年)。この年、北宋が北漢を滅ぼし中華統一。遼が領有する燕雲十六州に北宋が攻めてきましたが遼軍が撃退しました。

乾亨2年(980年)。文殊奴は「梁王」になりました。

 

蕭太后が摂政の時代

乾亨4年(982)。父の景宗が病死。
12歳で文殊奴が即位しました。第6代契丹皇帝 聖宗の誕生です。

母の睿智蕭皇后(蕭太后)は景宗の勅命で摂政になりました。

聖宗が即位したばかりのころ。一族内で皇位争いが激しく。聖宗の地位も不安定でした。そこで蕭太后と彼女に忠誠を誓う大臣・皇族たちが聖宗を支えました。

統和元年(983年)。「天輔皇帝」の称号を名乗りました。
国名を「大遼」から「大契丹国(イェケ・キタイ・オルン)」に変更。

聖宗即位当時の契丹包囲網

当時、北宋は中華を統一。契丹領の燕雲十六州も領土にしようと狙っていました。

契丹はかつて渤海と対立して滅ぼし傀儡国家の東丹国を作りましたが抵抗は続いています。

北宋の太宗は高麗と渤海残党に使者を送り共同で遼を攻めようと呼びかけました。高麗は渤海残党を受け入れ、北宋に朝貢して契丹に対立しようとしました。

契丹は敵対しているタングート・北宋・高麗・渤海残党に囲まれる形になっていました。でも契丹は皇位を巡って争いが続いていたので、外への対応ができない間に他国は力をつけていたのです。聖宗の即位後ようやく国内が落ち着き国外の勢力に対処できるようになりました。

統和元年(983年)。韓徳威がタングート(党項)を討つよう上奏したので許可しました。数千の兵を送りました。

統和2年(984年)。韓徳威はタングート討伐から戻ると河東も攻め捕虜を皇帝に献上しました。

東京(とうけい、現在の遼陽市)、平州で旱魃や蝗(トビバッタ)の被害があったので救済を命じました。

契丹の朝廷は北宋・高麗・渤海残党の連携を断つため高麗を服従させようと考えます。

統和3年(985年)。高麗攻めの準備をさせましが、遼東の湿地帯の状態が悪いので遠征は中止。乾くまで待つことになりました。

耶律斜軫に女真を攻めさせました。女真は北東アジアの狩猟民族。渤海を作った靺鞨と同じ民族。契丹が王朝になる前から隣の地域に住んでいた民族なので争いが絶えません。女真は集まれば戦闘力が高く、契丹にとってもやっかいな存在でした。

 

北宋を撃退

北宋の太宗は契丹の若い君主が即位したと知り燕雲十六州を奪うのは今が狙い時と考えました。

統和4年(985年)。宋太宗は20万の大軍で契丹領に攻めてきました。蕭太后と韓徳讓はすぐに反撃を指示。聖宗は蕭太后に連れられて出陣、駝羅口(北京南口)に陣を置きました。北宋軍は東・中・西の3方向から契丹領に攻め込み、契丹はいくかの領土を奪われました。

蕭太后はまず東路軍に戦力を集中させ将軍・耶律休哥が北宋の東路軍を破り補給を断ちました。すると北宋の中・西路軍は南に撤退し始めました。さらに西路軍を破り主将の楊業を捕虜にしましたが食事を断って獄中死しました。他の北宋軍も敗北。契丹軍は北宋が奪った土地を取り戻しました。

この戦いを北宋では「雍熙北伐」といいます。

統和4年(986年)。タングートの李継遷が契丹に朝貢してきました。李継遷は宋から独立しようとしていました。

統和5年(987年)。朝廷は蕭太后に「承天皇太后」、聖宗に「徳広孝昭聖天輔皇帝」の称号が贈られました。

統和6年(988年)。契丹軍は北宋の涿州に攻め込み。宋領内に駐留しました。

契丹に従う国が増える

統和7年(989年)。北宋が占領していた易州に侵攻、占領しました。

北宋の大攻勢を撃退して北宋を攻め始めた契丹に対して周辺国が続々と朝貢するようになります。

吐蕃(トゥプト)、党項(タングート)、阿薩蘭回鶻(アルスラン・ウイグル)、于闐(ホータン)が朝貢してきました。

統和8年(990年)。女真が朝貢。

タングートの李継遷を夏国王に冊封。

統和10年(992年)。東京留守の蕭恒徳たちに高麗を攻めさせました。
統和11年(993年)。高麗王が謝罪。北宋への朝貢を辞めたので罪を許し、女真が住む鴨綠江の東の土地を高麗に与えました。鴨綠江の土地は契丹の領土ではなく女真の土地なので「与えた」というのは事実ではありません。高麗が女真の土地を欲しいなら好きにして良いという意味です。契丹にとってはタダ同然の取引ですが女真にとっては迷惑な話です。後に紛争地帯になります。

高麗の服従で北宋が作った契丹包囲網は崩壊しました。

同じ年、ウイグルが朝貢してきました。

統和12年(994年)。耶律鼻舍たちが反乱を計画したので処刑しました。

北宋が使者を派遣、和議を求めてきましたが拒否しました。

均税法を制定する勅命が出ました。

北宋との戦い(伐宋)

高麗、タングートが契丹に服従したことで契丹の背後に驚異になる勢力はなくなりました。北宋との戦いに専念できる環境が整いました。

統和17年(999年)7月。聖宗は宋を征伐すると発表。
9月20日。契丹軍が南京(今北京)に集結。

9月24日。北院樞密使 魏王 耶律斜軫が病死。韓德讓が北院樞密使事を兼任しました。

10月24日。遂城綏靖を攻めましたが攻略に失敗。 蕭継遠に狼山鎮石砦を攻撃させて壊しました。 荊州に着くと宋軍と戦って康昭殿と宋舜を捕らえ、多くの武器や甲冑を手に入れました。楽壽県、遂城を攻略しました。

統和18年(1000年)1月。遠征軍が帰国。

ケレイト(モンゴル高原の北部の遊牧民)が反乱を起こしました。首領・鶻碾の弟・鉄剌は契丹に降伏。鶻碾も逃げ場がなくなると降伏しましたが、聖宗は鶻碾を処刑しました。

統和19年(1001年)10月。宋の遂城を攻めて攻略。満城に到達しましたが道がぬかるんでいたので退却。

統和20年(1002年)。北府宰相 蕭継遠、南京統軍使 蕭撻凜らが宋を攻めました。

統和21年(1003年)。耶律奴瓜と蕭撻凜が宋を攻め、宋の将軍・王継忠を捕虜にしました。

澶淵の盟

統和22年(1004年)閏9月。聖宗は大規模な遠征軍を宋に送り込みました。瀛州での抵抗はありましたが、契丹軍は猛烈な勢いで宋に攻め込み。11月には黄河河畔の澶淵まで到達していました。

宋の真宗は都を南に移そうとしましたが、宰相・寇準の主張で遷都をやめて自ら遠征を行い澶淵までやってきたので宋軍の士気があがりました。聖宗は大軍で攻めれば宋は逃げると思ったのですが宋の皇帝が出てきたのは意外でした。

契丹軍はここに来る途中の籠城した宋の城は落とさずに素通りしてきました。そのため挟み撃ちにあう可能性が出てきました。宗真宗が和睦の使者を送ってきたこともあり。蕭太后は和睦することにしました。なんどかの使者の往復のあと。「澶淵の盟」と呼ばれる和平条約が結ばれました。

11月17日。宋から和平の申し入れがありました。蕭太后は王継忠を派遣して和睦の遺志があることを伝えさせました。

11月22日。前線を偵察中の将軍・蕭撻凜が射撃されて死亡。聖宗と蕭太后はショックを受けます。

11月25日。宋軍を撃破。

11月27日。宋の使者・曹利がやってきて和平交渉を行いました。

12月4日。契丹側は土地を要求しましたが宋側が拒否。

12月9日。譲歩案として毎年宋が契丹に銀十万両、絹20万匹を契丹に贈ることになりました。実際には貢物ですが宋の要望もあり「歳弊」と呼びます。聖宗と蕭太后はその案を認め、和平交渉がまとまりました。前後して他にも様々な事柄が決められました。

12月10日。聖宗は満足して軍の撤退を命令しました。

 

宋との安定化と中京城の建設

統和23年(1005年)。正月。聖宗と蕭太后は南京(現在の北京)に戻ってきました。将兵に褒美を与えました。

タングート、ウイグル、女真、烏古などが朝貢に訪れました。

10月28日。宋からの最初の歳弊が到着。以後、毎年届くようになります。

統和26年(1008年)。中京城が完成。契丹の城でも特に大きなものでした。宋との関係が安定して使者の行き来も活発になり。諸外国から来る人々に契丹の威厳を見せつける目的もありました。

統和27年(1009年)12月5日。母・蕭太后の病状が悪化。
11日。皇太后 蕭綽が死去。

契丹の歴史に大きな影響を与えた蕭綽が亡くなり。聖宗 耶律 文殊奴の治世は新たな段階へと向かいます。

 

テレビドラマ

千秋太后 2009年、韓国KBS 演:張東植、呉建宇(少年)
燕雲台 2020年、中国 演:陳昊 (青年)、葉禾(少年)、裴文博(幼年)

 

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