耶律只没(やりつ・しぼつ)は契丹(遼)の皇族。
第3代皇帝 世宗 耶律兀欲(やりつ・こつよく)の息子です。
第5代皇帝景宗 耶律明扆(やりつ・めいい)の異母兄弟です。
母が漢人の甄皇后だった影響もあるのか。契丹語と漢語の両方ができて漢詩も上手な人物でした。
穆宗の時代。宮女と密通したのがばれて、穆宗の命令で目を潰され宮刑(去勢)になりました。
景宗の即位後に「寧王」の爵位が与えられ宮女と一緒になっています。
ところが妻の寧王妃 安只が毒を製造したので処刑され。耶律只没も爵位を剥奪されました。
耶律只没(やりつ・しぼつ)はどのような人物7日紹介します。
耶律只没の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:不明
姓名:耶律只没(やりつ・しぼつ)
国:大遼(大契丹国)
称号:寧王
父: 世宗 耶律兀欲(やりつ・こつよく)
母:甄皇后
妻:寧王妃 安只
異母弟:景宗 耶律明扆
耶律只没は世宗 耶律兀欲の長男だったとも三男だったとも言われます。
異母弟(兄?)には5代皇帝 景宗 耶律明扆がいます。
父は3代皇帝 世宗 耶律兀欲(やりつ・こつよく)
母は遼唯一の漢人皇后
母は甄皇后。
後唐の宮女でした。
耶律兀欲が太宗 耶律 堯骨(やりつ ぎょうこつ)とともに後唐を攻めたとき、宮殿にいた甄氏を捕虜にしました。甄氏は耶律兀欲の妾になりました。
時期は不明ですが耶律只没が誕生しました。
耶律只没は学問が好きで、契丹語と漢語ができました。
漢詩を作るのが上手かったようです。
耶律兀欲が皇帝(世宗)になると甄氏は皇后になりました。
甄皇后は遼では唯一の漢人出身の皇后です。
951年。祥古山で耶律察割が反乱を起こし世宗 耶律兀欲と母・甄皇后が殺害されました。
耶律屋質と耶律述律が耶律察割を倒し。
耶律述律(穆宗)が即位しました。
宮女と不倫して処罰される
969年。耶律只没は宮中の宮女(侍女)と密通。穆宗にばれて鞭で打たれ、片目を刺されました。宮刑になりました。宮刑とは去勢されて宦官にされることです。
その年の2月。穆宗が殺害されました。
その後。兄弟の景宗 耶律明扆が即位しました。
景宗の時代・妻の安只が毒を密造
景宗 耶律明扆の即位後。
耶律只没は解放され。「寧王」の称号が与えられました。
恋人関係にあった宮女と一緒になることが許されました。
記録では耶律只没には妻の「寧王妃 安只(あんし)」がいます。このときの宮女が寧王妃 安只なのかはわかりません。
耶律只没は宮女以外に女性関係の記録がないので寧王妃 安只と同一人物の可能性もあります。
976年。妻の安只が毒酒を密造したので処刑になりました。
なぜそのようなことをしたのかはわかりません。
耶律只没は爵位を剥奪され。烏古部に流されました。流刑先で「放鶴詩」という漢詩を書きました。
「放鶴詩」を見た景宗 耶律明扆は耶律只没を流刑先から呼び戻しました。
聖宗の時代・名誉回復
983年。遼聖宗が即位。
肅太后の命令で耶律只沒は「寧王」の爵位が戻されました。
このとき寧王 耶律只沒は「移芍薬詩」という漢詩を作りました。
またこの年。他の皇族と一緒に景宗の陵墓を作るための費用を献金しています。
時期はわかりませんが病死しました。
ドラマの耶律只没
燕雲台 2020年、中国 演:連晨翔
ドラマ「燕雲台」でも世宗と甄皇后の息子。
世宗の三男で 耶律明扆の弟。
宮女の安只と密通。
穆宗にばれて目を潰され宮刑になりました。
その後。安只と結婚。
安只が謀反に加わったので、只没自身の手で安只を殺害。安只の死後。只没は屋敷で一人暮らしをして、肉食を断ち、念仏しながら暮らしました。
コメント