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韓匡嗣(かん きょうし)述律皇后に可愛がられて契丹(遼)で出世した漢人

契丹 9 その他の国や民族

韓匡嗣(かん きょうし)は10世紀の契丹(遼)の政治家。

景宗、聖宗時代に活躍した韓徳譲の父親です。

契丹人ではなく漢人です。

祖先は唐に仕える役人でした。
韓匡嗣の父・韓知古は幼いころ、契丹の捕虜になって契丹で成長しました。韓匡嗣は契丹で生まれ育ち。述率皇后の寵愛をうけ出世しました。

韓家は契丹で暮らす漢人で最も出世した家柄になりました。

史実の韓匡嗣はどんな人物だったのか紹介します。

 

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韓匡嗣の史実

いつの時代の人?

生年月日:918年
没年月日:982年12月25日

姓名 :韓匡嗣(かん・きょうし)
字:天儞
契丹名:薬只

国:遼(契丹)

父:韓知古
母:蕭 欧妮迈扎
妻:蕭 甌昆拏思

子供:

九男七女

韓徳源(始平軍節度使・太師)
韓徳慶(左監門衛上将軍・司徒、早逝)
韓徳彰(氊毬使・左散騎常侍、早逝)
韓徳譲(耶律隆運)
韓徳威(彰武軍節度使・太師・同中書門下平章事)
韓徳沖(韓徳崇、戸部使・武定軍節度使・太師)
韓徳顒(耶律隆祐、右神武大将軍・太尉)
韓徳晟
韓徳昌(盧龍軍節度使)

など。

彼女は遼太祖から遼景宗時代に生きた政治家です

日本では平安時代になります。

 

おいたち

父は韓知古。
祖父の韓融は唐に仕えた役人でした。
唐の末期。契丹の耶律阿保機(やりつ・あぼき)が蘇州を襲撃。

述律平(後の述律皇后)の兄が当時6歳の韓知古を捕虜にして連れ帰りました。

韓知古は述率家で育てられ成長。述律平が耶律阿保機と結婚すると、述律平は従者になっても一緒に耶律阿保機のもとに来ました。

母の蕭 欧妮迈扎は契丹の蕭氏の一族。
韓知古は契丹の名家の娘と結婚しました。

918年。韓匡嗣が誕生しました。匡嗣は韓知古の三男です。

韓匡嗣は医術に優れていたので若いころから長寧宮(宮殿)で働きました。韓匡嗣は述律皇后に大変気に入られました。猶子(擬似的な親子関係、養子と違って相続権はない)になりました。

韓家の出世は韓匡嗣は述律皇后に寵愛されたからとも言われます。

遼太宗 からも才能をかわれて「驍衛将軍」に任命されました。朝廷の臣下として使えます。

韓匡嗣も契丹の蕭家の娘 甌昆拏思と結婚しました。

穆宗の時代。

応歴十年(960年)。宋王 耶律喜隱が反乱を計画。韓匡嗣もこの計画に加わったとされましたが。穆宗は韓匡嗣の罪を追求しませんでした。

韓匡嗣は辞職。隠居しました。

 

景宗の時代

韓匡嗣は景宗 耶律明扆が即位する以前から親しくしていました。

景宗 耶律明扆の即位後。上京留守に任命されました。

その後「燕王」の爵位を与えられ、「南京留守」に任命されました。
幽州にある南京(今の北京)を守る約目です。

保寧末年。南京留守と枢密使を兼任しました。

間違った助言で国が大ピンチ

耶律虎古が北宋への使者を終えて帰国。耶律虎古は北宋が攻めてくると予想。守りを整えるように報告しました。

ころが軍事に疎い 韓匡嗣は耶律虎古が危機を煽っているだけだと思い、守備兵を増やすことに頑なに反対。景宗は耶律虎古よりも韓匡嗣の意見を採用。北宋を迎え撃つ準備はしませんでした。

南京(なんけい:今の北京)の守りも特に変えませんでした。

乾亨元年(979年)。宋軍は北漢を滅ぼし、その勢いに乗って燕雲十六州に攻めてきました。南京も攻撃にさらされました。

このとき韓匡嗣の息子の韓徳讓が南京留守の代理を努めていました。韓徳讓たちの頑張りや耶律休哥たちの援軍が間に合ってなんとか幽州は守られました。

韓徳讓の美談として語られがちなこの戦いですが。景宗と韓匡嗣の判断ミスが招いた部分もあります。

これでは韓匡嗣は宋の内通者だと疑われても仕方ありません。景宗は韓匡嗣をよほど信頼してたのでしょう。

だから景宗はその後の戦いで韓匡嗣に汚名返上、手柄を立てる機会を与たのかもしれません。それが次の戦です。

戦場に出て大敗

乾亨元年(979年)9月。景宗の命令で韓匡嗣は南府宰相・耶律沙、惕隠・耶律休哥とともに北宋の鎮州に攻め込みました。

すると韓匡嗣は宋軍が降伏を求めてきたので受け入れようとします。でも耶律休哥は「敵の戦意はまだ衰えていません、罠だと思われます。兵に守りを固めさせるべきでしょう」と言いました。でも韓匡嗣は無視して宋軍の降伏を受け入れました。すると宋軍は突然、契丹軍の陣地を攻め始めました。韓匡嗣は何もできず易州の山まで逃げました。

しかし耶律休哥は軍をまとめ放棄された武器を回収すると反撃しました。その後、無事戻ってきました。

この報告に景宗は激怒。韓匡嗣を処刑しようとしました。でも睿智蕭皇后がとりなして杖刑だけですみました。

その後。晋昌軍節度使を務め。乾亨3年(981年)。西南面招討使になりました。

乾亨4年(982年)12月8日。死亡。享年65

死後「尚書令」に追封されました。

1995年。内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗で韓匡嗣と妻の墓が発見されました。
墓はことごとく盗掘されていましたが。詳しく調査すると契丹時代の200近くの墓があり、その中に韓匡嗣夫妻が合葬された墓もありました。その後、修復され。墓碑は遼上京博物館に保管されています。

 

韓匡嗣は医術は優れていたのでしょう。でも司令官としての才能はあまり高くないようです。

でも韓匡嗣は述律皇后に気に入られ、一族の者は高い地位に尽きました。息子の韓徳譲が活躍したのは彼の才能もありますが、韓匡嗣が築いた地位のおかげで韓徳譲の才能が発揮できる立場につくことができた。と言えるかもしれません。

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年、中国 演:蔣愷

劇中でも景宗派のひとり。耶律明扆を即位させようと活動します。
ドラマの韓匡嗣・韓徳讓親子は善玉なので歴史上の記録よりもいいように描かれています。

 

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