永平君(ヨンピョングン) 李景応(イ・ギョンウン)は19世紀末から20世紀初期の李氏朝鮮の王族。
22代 英祖の息子・思悼世子(サドセジャ)の子孫。
思悼世子の孫・全渓大院君の庶子でしたが、異母兄の李元慶が謀反の疑いで死刑になり。弟の李元範(イ·ウォンボム、後の哲宗)と共に再び江華島に流されました。
その後、全渓大院君の祭祀を継ぐために戻り。異母弟の哲宗の即位後。王族に復帰しました。高宗即位後は様々な職を務めました。
親や兄弟が後継者争いや政治的な争いの犠牲になったためか。永平君は王族に復帰したあとも政治的な活動からは距離を置いていました。
史実の永平君はどんな人物だったのか紹介します。
永平君(ヨンピョングン)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1828年8月30日
没年月日:1902年2月1日
名前:李景応(イ・ギョンウン)
本名:李元羲(イ・ウォンヒ)
称号:永平君(ヨンピョングン)
本貫:
父:全溪大院君 李㼅
母:李氏
妻:貞敬夫人 平山申氏、
貞敬夫人 清道金氏
子供:娘。
養子:李載純
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代です。
日本では江戸末期から明治時代になります。
おいたち
1828年(純祖28)旧暦7月20日。永平君 李景応(イ·ギョンウン)が誕生。
父は 全渓大院君 李㼅(イ·グァン)
祖父は 恩彦君 李䄄
曽祖父は 思悼世子 李愃
母は李㼅妾 李氏夫人。
第25代国王 哲宗の異母兄になります。
若いころの名前は李元羲(イ・ウォンヒ)。庶子として生まれました。
李景応は王族としての爵位を与えられませんでした。
その理由は父親の全渓大院君が恩彦郡の庶子だったこと。
恩彦郡の夫人の宋氏と嫁の申氏のカトリックの洗礼を受けたので賜死。恩彦郡も連座で賜死になったことなどの理由から。
さらに。
1844年(朝鮮憲宗10年)。異母兄(嫡子)の懷平君 李元慶(イ·ウォンギョン)は、閔晉鏞(ミン·ジンヨン)たちに担がれて王になろうとしたので賜死になりました。
そのため李元羲は異母弟の李元範(イ·ウォンボム、後の哲宗)と共に再び江華島に流されます。
その後。嫡子で、異母兄の李元慶には跡継ぎがいませんでした。李元羲が全渓大院君 李㼅の相続人になりました。漢城府弘恩洞の白蓮寺の近くで暮らしました。
哲宗時代に王族に復帰
1849年(哲宗即位年)。異母弟の哲宗が即位。
「昭義大夫」の爵位を与えられ、王族としての地位が回復。
名前を李昱(イ・ウク)にしました。
1849年。哲宗は正祖の時に一時的に設置された宿衛所を復活させ、永平郡を宿衛大将に任命ししました。
1849年。宗戚執事になりました。
1851年(哲宗2年)8月6日。玄禄大夫に昇進しました。
哲宗は父の李䄄と生母を大院君および大夫人廉として追封。全渓大院君廟(全渓宮)を創建しました。この時、祭祀を行う人がいなかったので哲宗の異母兄弟の李昱を永平君に封じて全渓大院君廟の祭祀を任せました。
1857年。正妻の平山申氏が死亡。 墓は父の全渓大院君の墓所右側の丘に埋葬しました。
まもなく清道金氏の金載元の娘と再婚しました。
清道金氏との間には娘が1人生まれました。
高宗の時代・王族の一員として活動
1863年(高宗即位年)12月8日、文書寫官に任命され、代奠官になりました。
1864年(高宗1)2月5日に愛冊文書写官となり、同年2月7日に女本宮手調を経て、同年4月11日に宗尺執事に任命された。
1864年。永平君には男子がいません。また慢性的な病気があったので、高宗は養子を迎えて跡継ぎにするように命令。宣祖の庶子・慶昌君の子孫の李載純(イ·ジェスン)を養子にしました。
その後も様々な役職を歴任。
1868年(高宗5)3月6日。名前を「昱」から「景応」に改名しました。
徳興大院君の子孫の中で「応」の文字を付ける世代だからという理由です。そのため名前に「応」を入れろと命令がありました。中国では親戚の中で同じ世代には同じ漢字を使う習慣がありました。朝鮮でもその習慣を真似ることがありました。
永平君の同世代には高宗の父・李昰応(イ・ハウン、興宣大院君)がいます。
1872年(高宗9)2月9日。永恵翁主(哲宗の四女)と朴泳孝の婚礼が決まりました。永平君は主婚堂上に任命され婚礼を取り仕切りました。
永平君は政治的な活動には関わらず、王族の一人として様々な役職を務めました。
1893年(高宗30)。義和君 李堈(高宗の五男)の婚礼も主催しました。
1900年。このころ病状が悪化。
1902年。死去。享年75歳。
テレビドラマ
哲仁王后 2020年、tvN 演:ユ・ミンギュ
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