鄭夢周(チョン・モンジュ:ポウン)は朝鮮王朝でも賞賛された高麗最後の忠臣

2017年7月8日

鄭夢周(チョン・モンジュン)は高麗王朝最後の忠臣と呼ばれる人物です。李成桂(イ・ソンゲ)らとともにクーデターを起こしました。しかし新しい王朝を作って自分が王になろうとする李成桂と違い、高麗王朝の中で改革を進めようとする鄭夢周は意見が対立するようになります。

そして最後は李成桂の息子、李芳遠(イ・バンウォン)によって殺害されてしまいました。

史実の鄭夢周(チョン・モンジュン)はどんな人だったのか紹介します。

チョン・モンジュン(鄭夢周)の史実

いつの時代の人?

彼が生きたのは1337年~1392年。高麗王朝末期の時代です。

日本では室町時代になります。

おいたち

号(ペンネーム)は圃隠(ポウン)

両班の家に生まれました。幼い頃から記憶力がよく。親孝行だったといいます。父から漢学、李斉賢から儒学を学びました。

1360年。科挙に首席で合格しました。

金得培が紅巾賊の反乱を治めたとき、金庸に妬まれて殺害されてしまいました。他の家臣たちは金庸が怖くて何も言いませんでした。夢周だけは王に懇願して金得培の遺体をうけとり、碑文を作って埋葬しました。

1363年。李成桂(イ・ソンゲ)ともに女真族討伐に参加、国境の外に追い出すことに成功します。

1368年。明が建国されると外交関係を結ばなければならないと主張。明と国交をむすぶことに功績をあげました。

成均館で儒教を教えるなど人材育成にも熱心でした。

恭愍王が辛旽(シンドン)を採用して政治を行わせました。辛旽が朝廷で力を持つと夢周も要職を務めるようになりました。しかし辛旽は周囲の反発をかって失脚。夢周も辛旽の一味とされ朝廷内でも苦しい立場におかれました。

1372年。使節として明に派遣されました。帰りの途中台風にあって船が難破しました。多くの仲間が死亡しましたが、島に流れ着き13日間持ちこたえました。明の皇帝・太祖は使節の船が難破したという知らせを聞き船を送りました。夢周は明によって助け出されました。このとき空腹の中でも毅然としている姿が太祖にも伝わり深い信頼を得たといいます。

1374年。慶尚道に赴任します。明ではなく元と友好を保ちたいと考える家臣らがクーデターを起こして恭愍王が殺害されました。禑王が即位後、鄭夢周は都に戻ってきました。クーデターでは恭愍王とともに明の使節も殺してしまったので明が責任追及してきました。鄭夢周は明に使者を送り謝罪しました。

1375年。朝廷の権力者で元との関係を重視する李仁任(イ・インイム)との対立が深まり。鄭夢周は流刑になりました。1377年には釈放となりました。

1377年。倭寇問題を話し合うため日本に来て室町幕府・九州探題の今川貞世と交渉しました。日本が倭寇を取り締まることを約束させました。

今川貞世は大内氏とも協力して倭寇を鎮圧。捕まった高麗人を開放することに成功しました。鄭夢周が帰国するときには700名の高麗人を連れて帰ったといいます。

鄭夢周はしだいに李成桂に同調するようになります。

1388年。李成桂(イ・ソンゲ)と共にクーデーターを起こして昌王を即位させました。

国家運営は李成桂が主導し、鄭夢周はさらに出世街道を突き進みます。

1389年には李成桂とともに昌王を廃して恭譲王を即位させました。

しかし夢周は高麗王朝を倒して自分が王となろうとする李成桂と対立するようになりました。高麗朝廷内でも李成桂派と高麗王派に分かれて対立していました。夢周は恭譲王の信頼を得ていました。

1392年。李芳遠が落馬して黄州で療養中に李芳遠一派を取り除こうとしました。李成桂の腹心、鄭道伝(チョン・ドジョン)らを追放しました。

しかし李芳遠(イ・バンウォン)が反撃してきました。李芳遠は夢周を呼んで李成桂に味方する意志があるのか探ります。夢周は高麗王に仕える意志を伝えました。

鄭夢周は自分の暗殺計画があることを知り、李成桂、程前を弾劾します。

1392年。李成桂が病気を理由に姿をみせなくなると不審に思い見舞いました。その帰りの途中で李芳遠の放った刺客によって殺害されました。

このとき鄭夢周は自分が死ぬことを予想しており家族にも遺言を残していたといいます。

後世に与えた影響

鄭夢周は多くの弟子を育てました。弟子の一人・吉再は士林派の祖となり、朝鮮王朝にも影響を与えています。世宗の教師となった權遇など優れた儒学者もいます。

鄭夢周を殺害した李芳遠でしたが、後に鄭夢周を賞賛しています。芳遠は李氏朝鮮建国後に程前と対立しました。程前をおとしめるために意図的に鄭夢周を忠義の家臣にしたてあげてて賞賛しました。鄭道伝、程前など朝鮮王朝建国後に処刑した者たちが逆臣扱いされたのとは対照的です。敵の敵は味方というわけです。

さらに彼の教えをうけつぐ士林派が朝廷内で力を持つようになるとさらに美化されるようになりました。高麗の忠臣でありながら、李氏朝鮮でも賞賛された珍しい人物なんです。


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