思悼世子(サドセジャ、イ・ソン)イ・サンの父はなぜ死んだのか?

2018年3月28日

荘献世子(チャンホンセジャ)といいますが、思悼世子(サドセジャ)の方が有名です。ドラマではイ・ソンの本名で登場することもあります。

思悼世子(サドセジャ)は死後に英祖が哀れんで付けた呼び方。荘献世子(チャンホンセジャ)は正祖が付けた呼び方です。

思悼世子の不幸な死に方には今でも様々な説があります。それだけにドラマの題材としてもよく扱われます。

朝鮮王朝実録をもとに史実の思悼世子(サドセジャ)がどんな人物だったのか紹介します。

思悼世子(サドセジャ)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1735年 2月13日
没年月日:1762年7月12日

名前:李愃(イ・ソン)
称号:荘献世子(チャンホンセジャ、そうけんせいし)、思悼世子(サドセジャ、しとうせいし)、荘宗(追尊)
父:英祖
母:暎嬪李氏
妻:恵慶宮洪氏

子供
懿昭世子
正祖
清衍郡主
清璿郡主

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の主に21代英祖の息子、22代正祖の父親です。

日本では江戸時代の人になります。

おいたち

1735年 。李愃(イ・ソン)は英祖と暎嬪李氏の間に産まれました。英祖の次男になります。

半兄孝章世子が亡くなったため、2歳で世子(思悼世子)になりました。英祖はすでに40歳をすぎていたので早く決める必要があったのです。

思悼世子の母は側室でした。そのため、王の後継者として貞聖王后徐氏の手で育てられました。

10歳の時、老論派の重臣・洪鳳漢の娘・惠慶宮洪氏と結婚。

英祖は厳しすぎる父親

幼い頃から李愃(イ・ソン)は父・英祖から学問だけをするよう命じられました。しかし若い李愃(イ・ソン)は尚宮たちと戦争ごっこをして遊びました。それでも母の暎嬪李氏には勉強していたと嘘をついていました。うそが英祖にばれてしまいひどく怒られることもありました。

李愃(イ・ソン)は厳しすぎる英祖を怖がっていました。英祖の前では一言も言い返せなかったといいます。

妻の惠慶宮洪氏の日記閑中錄には世子の様子を「恐怖症」と書かれています。妻が見ても明らかに怖がってるように見えたのでしょう。

英祖が譲位を言い出す

1749年(英祖25年)1月。英祖は大臣らの前で思悼世子に譲位するとほのめかしました。突然の出来事に大臣たちは反対しました。

呼び出された思悼世子は英祖の前でうつ伏せになり泣いたまま英祖の言葉に返事をしませんでした。大臣たちも譲位を引き止めるので英祖も譲位を取りやめました。

ところが後日、英祖は思悼世子は代理聴政をさせると発表しました。初めからそのつもりだったのでしょう。

代理聴政とは王の許可を得ながら代わりに政治を行うことです。このときはまだ英祖が元気だったので実質的には英祖が政治を行っているのと同じでした。

英祖は老論と少論が争う朝廷を不安に感じていました。重臣たちの権力争いの中で思悼世子が王になった時、うまくやっていけるのか不安でした。そこで将来のために若いときから経験を積ませる意味で代理聴政を任せたのでした。

自らが表に出ないことで王の権威を高める狙いもあります。王が重臣たちと直接話し合うとどうしても重臣たちの意見に流されてしまいます。王と重臣の間にワンクッション置くことで、王が重臣の意見に流されないで政治を行うことができるのです。

しかしこの方法は間に立つ者に高い調整能力が求められます。

大臣たちは代理聴政にも反対しましたが、英祖は無視して思悼世子に代理聴政を行わせました。

代理聴政の始まり

当時、力をもっていたのは老論派でした。ところが思悼世子の代理聴政が始まると、老論派内部でも対立が起こりました。

領議政の金在魯たち非外戚勢力は思悼世子の力が強くなるのを恐れて排除しようとしました。思悼世子の義父・洪鳳漢は世子を助けて力を得ようとしました。

思悼世子が少論派をかばったと言われることもありますが。老論派が強くなりすぎるのを抑えるために英祖の命令でやったことでした。

思悼世子が代理聴政をはじめると英祖は厳しく指導します。思悼世子は褒められることはなく、怒られてばかりでした。怒鳴られることもありました。

1750年(英祖26年)。長男の懿昭世子が生まれました。しかし3年で死亡しました。

1752年(英祖28年)。次男の祘(サン、後の正祖)が生まれました。

このころ英祖は体調を崩し寝込んでいました。事実上、英祖にかわって思悼世子が政治を行いました。

しかし老論たちは思悼世子が間違った政治を行っていると告げ口します。重臣たちの告げ口を信じだ英祖は、思悼世子にきつくあたることが増えました。

思悼世子はうつ病気味になったといいます。

1757年。敬順王后が亡くなります。
1759年。英祖が新しい王妃を迎えました。貞純王后です。

金在魯は貞純王后とともに思悼世子への批判、英祖へ告げ口を強めます。金在魯は貞純王后から子が生まれればその子を世子にして権力を握るつもりでした。

思悼世子の義父・洪鳳漢が領議政になるとますます誹謗中傷は激しくなりました。

精神を病みおかしな行動をとる思悼世子

厳しい英祖と重臣たちの誹謗中傷に思悼世子の精神は病んでいきます。

思悼世子はしだいにおかしな行動をとるようになります。

殺人まで行う

祖母に当たる仁元王后(粛宗の3番目の妃)に仕えた女官の朴氏(高宗の時代に景嬪朴氏に追尊、朴氷愛:パク・ピンエ)を妾にしました。英祖に知られて怒られます。許可なく目上の者に仕える女官に手を出してはいけないからです。さらに、精神的に病んでいた思悼世子は朴氏を撲殺してしまいます。

他にも思悼世子は人を殺すことがあったといわれます。

王に無断で都を離れ密会

1763年(英祖37年)4月。思悼世子は英祖に黙って平壌に行きました。隠居していた少論派の趙載浩(チョ・ジェホ)に会いに行きました。味方の少ない思悼世子は趙載浩に助けを求めたのだといわれます。

重臣たちからは批判もありましたが、洪鳳漢は平安道の監査という名目でごまかそうとしました。最初は英祖にはばれませんでしたが、5ヶ月後、貞純王后の兄に知られて英祖に報告されてしまいます。

さらに東宮殿の地下に空間があり、そこに軍旗を隠していることがわかりました。

思悼世子は英祖から叱られましたが、それ以上の大きな罰はうけていません。
かわりに趙載浩、李天輔、閔百祥(ミン・ベクサン)など重臣が責任を取らされて死罪になりました。

謀反の訴え

1762年(英祖38年)5月22日。老論派の羅景彦が訴えを起こしました。数々の思悼世子の罪を書きならべ謀反を企てていると告発書を出したのです。それを見た英祖は怒りました。しかし英祖も全てを信じたわけではありません。謀反だと煽るのは論外だとして羅景彦を投獄して処刑しました。

しかし幾つかの訴えは本当だったようです。思悼世子は泣きながら非行の原因は自らの火症(怒りすぎて理性がきかなくなる極度のヒステリー症状)が原因だとして非行そのものは否定しませんでした。

英祖は「ならばもっと追い詰められたら治るのではないか」と冷たく突き放しました。

思悼世子の死

閏5月13日。英祖は思悼世子に会おうとしましたが、思悼世子は病気を理由に会おうとしません。さらに謀反があるという連絡が入りました。報告したのは思悼世子の母・暎嬪李氏でした。

母にも見放される

思悼世子の奇行には実の母でさえ頭を痛めていました。息子を罰する代わりに孫だけは助けてくれるようにと訴えたのです。

英祖は謀反に備え王宮の警備を厳重にします。

思悼世子は英祖の前に呼び出され冠を脱いで土下座させられました。思悼世子は額から血がでるほど頭を地面に打ちつけ謝りましたが、英祖は思悼世子に自害を言い渡しました。

大臣たちもその場に駆けつけましたがだれも思悼世子をかばおうとしません。義父の洪鳳漢でさえ英祖に意見はしませんでした。

思悼世子の息子で世孫の祘(サン:後の正祖)が慌ててやってきました。英祖は世孫が部屋に入ってこれないようにすると、思悼世子に改めて自害を命じました。

思悼世子が観念して自害しようとすると、思悼世子の側近が止めに入りました。

そこで英祖は、思悼世子の世子位を廃して庶人にしました。洪鳳漢も英祖に意見はいいませんでした。

思悼世子はなきながら英祖に許しを求めました。しかし英祖は激怒して思悼世子を米びつに閉じ込めるように命令しました。

思悼世子は米びつに閉じ込められ8日後に死亡が確認されました。享年27歳。

思悼世子の死後

思悼世子が死亡して半月後。英祖は庶子に廃したことを取り消し、思悼世子(サドセジャ)の称号を与えました。

一ヶ月もしない間に、英祖は金在魯を解雇しました。英祖は思悼世子が死ぬ原因を作ったのは、金在魯と思悼世子の非外戚勢力だと判断したのです。その後、英祖は金在魯を流罪にしたあと死罪としました。

思悼世子を死に追いやった英祖ですが、息子を憎んでいたわけではないようです。自ら祭主となって葬儀を行いました。

事件後、世孫が思悼世子に追尊しないように英祖は世孫を孝章世子の養子にしました。孝章世子は思悼世子の兄で既にこの世にはいません。そして世孫に思悼世子に追尊しないよう約束させたのです。

世祖は即位後、思悼世子の追尊を試みましたが重臣たちの反対にあいできませんでした。高宗の時代に「荘宗」と追尊されています。

厳格すぎる父親と激しい派閥争いの中、精神を病んでしまった思悼世子。やがておかしな行動が目立つようになり。王族の恥さらしと思われ最後は死に至りました。

朝鮮王朝実録の記録を見る限りでは思悼世子の行動は常軌を逸してます。王族の恥さらしとして始末されても仕方ありません。しかし実録の内容がすべて正しいとも限りません。そのため死に至るいきさつについては現在でも様々な説があります。

それだけにドラマの題材としても面白いのかもしれませんね

テレビドラマ

大王の道 1998年 MBC 演:イム・ホ
商道 2001年 MBC
イ・サン 2007年 MBC 演:イ・チャンフン
正祖暗殺ミステリー8日 2007年 CGV 演:チョ・ハンジュン
風の絵師 2008年 SBS 演:キム・ウォンソク
トキメキ☆成均館スキャンダル 2010年 KBS 
ペク・ドンス 2011年 SBS 演:オ・マンソク
秘密の扉 2014年 SBS 演:イ・ジェフン
赤い月 2015年 KBS 演:キム・デミョン
仮面の王 イ・ソン 2017年 MBC 演:ユ・スンホ

ドラマでは別人のようになっている思悼世子(イ・ソン)

正祖(イ・サン)の父、英祖の息子という有名な王の間の世代だったこと。悲劇的な最期だったことから様々なドラマに登場しています。

しかし朝鮮王朝実録の記録を忠実に再現したドラマは殆どありません。歴史の記録どおりの人だったとすると、イ・ソンはあまり同情できる人物ではなくなってしまいます。そうなるとイ・サンのイメージも傷ついてしまうからだと思われます。

「大王の道」は最近のドラマに比べれば比較的歴史の記録に近い内容です。

「イ・サン」では悲劇的な世子として描かれました。

近年では歴史の記録は無視して「秘密の扉」や「イ・ソン仮面の王」のように正義感あふれる英雄的な人物として大幅に脚色されることが多いようです。

「秘密の扉」と「イ・ソン仮面の王」では父は先の王(景宗)を暗殺して王になった。イ・ソンは正義感あふれ真実を暴こうとする王子。というパターンは同じ。

「秘密の扉」は実在の人物の名前を使ってますが別人と思っていいです。ストーリーも歴史の記録とは違ってます。イ・ソンを理想の王子として大幅に美化していますね。

「イ・ソン仮面の王」では登場人物は架空の設定。現実離れしたストーリーになってますが、イ・ソンの名前は同じ。王室のおおまかな人間関係は景宗・英祖・思悼世子をモデルにしているようです。


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