中国ドラマ「麗妃と始皇帝」では
楚夫人(そふじん)が秦王・嬴政(えい・せい)の妃(夫人)として登場します。
嬴政は後に中華統一して始皇帝と名乗ります。ところが始皇帝は有名ですが、始皇帝の妃は分かっていません。
つまり楚夫人は架空の人物なのです。
ところが楚夫人がいた可能性はゼロではありません。ドラマそのものの楚夫人はいなくてもモデルになりそうは人はいた可能性はあります。
いたかもしれない楚夫人のモデルとドラマの楚夫人を紹介します。
一部、ドラマのネタバレも含まれているのでご注意ください。
楚夫人のネタバレ
ドラマの楚夫人は架空
歴史上、始皇帝には大勢の妾がいたと書かれています。
始皇帝には何人か子供がいます。その母がいるのは間違いないです。
でも始皇帝の正室や側室の名前や称号は記録されていないのです。
始皇帝のドラマには様々な夫人や側室たちが登場します。でもすべて架空の人物なんです。
「麗妃と始皇帝」に登場する公孫麗や楚夫人も架空の人物。
じゃあ「麗妃と始皇帝」に登場する楚夫人が完全な作り話かというとそうとも言い切れません。
というのも中国では
「始皇帝の正室は楚夫人じゃないか?」
という説があるからです。
公式の歴史書には書かれていないのではっきり「そうだ」とは言えませんが。
「楚夫人」がいた可能性はある。
ということなんですね。
楚夫人が始皇帝の妃だった可能性
嬴政が即位するまでの秦は楚と深い関係にありました。
秦はもともと西域の遊牧民が作った国。中原の国よりも文化や制度が遅れていました。そこで進んだ文化や制度をもつ中原の国から有能な人を採用していました。能力があるなら外国人でもいい。という国だったのです。だから秦の宰相や重臣たちにも外国出身者が多いです。
妃たちももちろん外国出身者が多いです。日本でもそうですが戦国時代は政略結婚は当たり前のように行います。だから歴代秦王の正室や側室には外国出身者が多いです。
秦ととくに深いつながりが会ったのが楚の人々です。楚は秦に対抗できる数少ない大国になっていたからです。秦としてもむやみに敵にはできません。
ミーユエでおなじみの 宣太后 も楚出身でした。
宣太后の子・昭襄王の正室・葉夫人も楚出身だと言われています。
嬴政がいたころの後宮で大きな力をもっていたのは華陽太后。
華陽太后も楚の出身です。
嬴異人が華陽夫人(華陽太后)の養子になったとき。華陽夫人を喜ばせるために華陽太后の祖国にちなんだ「子楚」と名乗ったのは有名な話です。
荘襄王(嬴子楚)にはすでに趙国出身の妻・趙姫とその息子・嬴政がいました。荘襄王には生母の夏太后もいたので華陽太后の思惑通りにはいかなかったかも知れません。
でも夏太后は死去。嫪毐事件で趙姫も幽閉。
秦王・嬴政の後宮で最も力をもっていたのは華陽太后です。それなら華陽太后は「嬴政には我が祖国出身の姫を」と考えてもおかしくありません。
華陽太后の時代も秦の朝廷内では李斯のように楚出身者のいました。李斯は始皇帝からも信頼されていたので楚国人派閥はそれなりに力はあったでしょう。
力を持つ派閥は外交を有利にしようと母国の人間を採用させようとします。ますます楚出身者の妃が誕生する可能性は高くなります。
そのせいか。ドラマなどで始皇帝の妃を設定する場合は、楚出身者にすることがよくあります。
確実な証拠はなくても、楚出身者の妃(夫人)がいた可能性は高いのです。
ドラマ「麗妃と始皇帝」の楚夫人
「麗妃と始皇帝」でも楚出身者の妃が登場します。
名前も「楚夫人」楚出身の夫人(妃)という意味です。
春秋戦国時代は王の側室に「夫人」とつけば後の時代の「妃」と同じくらいの地位にいます。
ドラマの楚夫人も楚国出身です。
同じ楚国出身の華陽太后から贔屓にされています。
そのせいか傲慢なところがあります。後から来た麗妃をいじめます。麗妃の息子・天明を隠したり。他の側室を流産させたりと、後宮ものによくある悪い側室そのままの言動。
でも、やりての敏夫人ほど賢くはありません。
公孫麗と一緒に陥れられて韓非殺害の罪を着せられてしまいます。
地位も夫人から良人に格下げ。
公孫麗が楚夫人の無実を証明すると公孫麗とは和解します。公孫麗の味方になりました。
地位も夫人に戻りました。
ところが最後には反乱の責任を負わされて昭徳宮で首を吊って自害に追い込まれます。
TVドラマの楚夫人
麗妃と始皇帝 2017年 、中国 演:王汀 役名:楚若
大秦武 2020年、中国 演:佳琪 役名:羋華
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