劉元(りゅう・げん)は後漢の初代皇帝・光武帝の姉。
光武帝に仕えた武将の鄧晨(とう・こう)の妻です。
漢の重臣だった王莽はクーデターを起こして漢の皇帝から皇帝の座を奪い、「新」という国を建国しました。
ところが王莽の政治に不満を持つ豪族は多く各地で反乱が起きました。
弟の劉兄弟や夫の鄧晨は王莽を倒すために挙兵しました。ところが新との戦いに敗北してしまいます。
鄧家は新軍に襲撃され劉元と娘たちは死亡しました。
このとき劉秀の助けを拒んだという逸話があります。
史実の劉元(りゅう・げん)はどんな人物だったのか紹介します。
劉元の史実
いつの時代の人?
生年月日:不明
没年月日:22年
姓 :劉(りゅう)氏
名称:元(げん)
国:新
称号:新野節義長公主(死後)
父: 劉欽
母:樊嫻都
姉:劉黄
弟:劉縯、劉仲、劉秀(光武帝)
妹:劉伯姬
夫: 鄧晨
子供:鄧汎、3女
日本では弥生時代になります。
おいたち
劉家は前漢の第6代皇帝・景帝の子孫です。
皇位を引き継ぐ権利はなく、南陽郡に移住して地方豪族になっていました。
劉元の生年は不明。
荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)出身。
父は劉欽。
南頓の県令(知事)でした。
母は樊嫺都。
姉は劉黄。
弟は劉縯、劉仲、劉秀。
妹は劉伯姫。
西暦3年に父・劉欽が死亡。
その後は他の兄弟とともに叔父に育てられました。
豪族の鄧晨(とう・しん)と結婚
劉元は時期は不明ですが、荊州南陽郡新野の豪族・鄧晨(とう・しん)と結婚しました。
劉家は南陽の有力豪族たちと婚姻関係を結び、広い人脈を得ていました。劉縯・劉秀が挙兵できた理由の一つが、こうした地元の豪族たちの協力でした。
夫の鄧晨は劉縯、劉秀と親しくしていました。たびたび集まっては劉兄弟と飲んでいたといいます。
劉秀が新の役人に追われて身を隠そうとしたときは鄧家にかくまったこともあります。
弟と夫の挙兵が失敗して犠牲に
地皇3年(22年)。弟の劉縯、劉秀たちが新野で打倒・王莽を目指して挙兵しました。夫の鄧晨も兵をひきつれて劉縯たちに合流しました。
その年の終わり頃。劉縯、劉秀たちはあ小長安聚(南陽郡育陽県)で、新の前隊大夫(南陽太守)甄阜、梁丘賜と戦って敗北しました。
勢いに乗る新軍は劉縯、劉秀たち反乱軍の追撃、彼らの本拠地を襲撃しました。
劉縯、劉秀兄弟たちは家族の救出に向かいました。
新軍は劉元たちが暮らす鄧家も襲撃。家は破壊されました。
逃げ惑う劉元を発見したのは劉秀でした。劉秀はすでに末妹の伯姫を救出して馬に乗せていました。劉秀はさらに劉元と3人の娘を救い出そうとしています。
劉元は全員を助けるのは無理だと判断しました。新軍はすぐそばにいます。
劉秀の出した手を振り払って「行きなさい。私たちを助けるのは無理です。私たちは一緒に行くことはできません」と言いました。
劉元は劉秀たちの救出を拒否しました。
劉秀と伯姫たちは馬で逃走。助かりました。
劉元と3人の娘は新軍に追いつかれて死亡しました。このとき弟の劉仲も戦死しました。
建武1年(25年)6月。弟の劉秀が光武帝として即位しました。
夫の鄧晨は房子侯に任命されました。
このとき劉元も「新野節義長公主」の位が贈られました。
新野の西に劉元を祀る廟が立てられている。
鄧晨と劉元の間には1男(3男という説もあり)3女がうまれました。
息子の鄧汎は無事生き延びて跡をついでいます。
テレビドラマ
秀麗伝〜美しき賢后と帝の紡ぐ愛〜 2016年、中国 演:関智斌
ドラマでも鄧晨と結婚。
劉縯、劉秀、鄧晨たちが挙兵後、新軍と戦って敗北。
家族を連れて逃走する途中で新軍に襲われ、劉元たちは死亡します。
死後「新野公主」の称号が与えられます。
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