唐 徳宗 李适(り・かつ)は唐の第12代皇帝。
代宗の長男です。
中国の民話やドラマで有名な沈珍珠(睿貞皇太后 沈氏)の息子です。
徳宗は安史の乱を終わらせ唐を混乱から立ち直らせようとしました。
力をもっていた節度使の世襲制をやめさせようとしましたが失敗。反乱を起こされてしまいます。
治世の間に税の仕組みを変え、朝廷の収入を増やしました。唐の中興の祖と言われることもあります。
史実の唐 徳宗はどんな人物だったのか紹介します。
唐 徳宗の史実
プロフィール
生年月日:742年5月27日
没年月日:805年2月25日
名称:李适(り・かつ)
称号:徳宗
父:唐 代宗
母:沈氏
正室:昭徳皇后 王氏
子供:順宗・李誦など
彼は唐の12代皇帝
日本では平安時代になります。
おいたち
李适於
玄宗の時代。李适(り・かつ)は742年5月27日。長安で生まれました。
父は 広平郡王 李俶(り・しゅく)
母は広平郡王の妾・沈氏
生まれて八ヶ月後。郡王になりました。
755年。安史の乱がおこりました。玄宗と皇族、重臣たちは長安を脱出して蜀に逃げました。13歳の李适も他の皇族と一緒に避難しました。
しかし広平王の側室だった生母 沈氏は置き去りにされ。戦乱の中で行方不明になりました。
762年。父親の代宗が即位。李适は天下兵馬元帥に任命され、魯王の爵位を与えられ。まだ続いている安史の乱の鎮圧を任されました。
その後、雍王になりました。
763年。安史之乱がようやく鎮圧。李适はその功績で尚書令になりました。
764年(広徳2年)。 李适(り・かつ)は皇太子になりました。
徳宗時代の前期
779年(大暦14年)代宗が死去。徳宗 李适が即位しました。
父・代宗が宦官に担がれて皇帝になったので宦官を優遇して各地に派遣。宦官達は平気で賄賂を集めていました。
徳宗は父の政治を見ていたので、武官や文官を信用して宦官を信用せず。地方から戻ってきた宦官から財産を没収、処刑しました。何人かの宦官が処刑されています。それを知った他の宦官は地方から中央に戻る時はもらった賄賂を捨てたといいます。
税制の改革
唐では「租庸調」や「雑徭」などの税がありましたが。一部の地域でしか税が集まらず、税のしくみがうまく機能しなくなっていました。
建中元年(780年)。徳宗は宰相 楊炎(よう・えん)の提案を受け入れ「両税法」を採用しました。などそれまでの税を廃止しました。
唐の均田制では土地はすべて国のもので大地主は存在しない建前になっていました。大地主が払う税もいち農民が払う税も同じでした。「両税法」では住んでる土地の広さによって税を決めました。広い土地を持っている地主からは多くの税をとるようにしたのです。
唐でも「均田制」は早い段階で制度が崩壊していたのですが、それなりの税収があったので問題にはしませんでした。でも安史の乱以降は税収が不足したので朝廷もようやく私有地の存在を認めて税を集めるようにしたのです。
両税法は形を変えながらも明の時代まで続きました。問題点もありますが中国の税制では大きな変更でした。
藩鎮対策
安史の乱では鎮圧で功績のあった武装勢力を節度使に任命。乱の終結後も増えて。藩鎮。つまり軍閥化した節度使の増加が問題になってました。
節度使は自分で税や兵を集める権限を持っているで、力をつけると半分独立国みたいになってしまいます。
建中2年(781)。河北成徳鎮の節度使・李宝臣が病死。節度使は世襲が慣例になっていたので。その子・李惟岳が節度使の任命を申請しました。
徳宗は節度使の世襲はやめさせようと想っていたので李惟岳の申請を却下しました。
奉天の難(涇原兵変)
建中3年(782年)の末。節度使になれなかった李惟岳は他の節度使の田悦、李正己、梁崇義と共謀して挙兵しました。
徳宗は幽州留守 朱滔、淮西節度使 李希烈たちに命じて反乱軍を討たせました。李惟岳たちは戦死。反乱はほぼ鎮圧されました。
ところが褒美が少ないのを不満に朱滔たちが反乱を起こしまし長安に攻め込んできました。徳宗は奉天(今の陝西省乾県)に避難しました。
朱滔の兄・朱泚は大秦皇帝を名乗り奉天を包囲。
李晟、李懷光たちによって奉天の包囲は解かれました。
興元元年(784年)。徳宗は「罰己詔(己を罰する詔(みことのり)」を発令。世の中の混乱はすべて自分にあると発表。挙兵した者たちはすべて許し、元通りにすると約束しました。多くの節度使は皇帝に従うことにしました。
ところが今度は李懷光が反乱を起こたので徳宗は梁州(今の陝西省漢中)に避難しました。
李晟が朱泚・朱滔を破り長安を奪還。徳宗は長安に戻りました。李懷光は馬燧に敗れて自害しました。
こうしてようやく反乱は収まりましたが徳宗の藩鎮対策は挫折します。
徳宗時代の後期
徳宗はこの反乱の後は考えを変えました。宦官を信用して武官や文官を信用しなくなります。
というのも反乱が起きた時、将軍たちは兵を集めることができず。文官たちは武官を批判するばかりで、それがかえって武官の反乱の引き金になりました。その一方で徳宗に仕える宦官たちは皇帝を守ろうとしました。宦官は皇帝しか頼るものがいないからです。
徳宗は宦官に禁軍の指揮官を任せ。宦官が各地の軍隊を監督する制度を作りました。
後に孫の憲宗は徳宗の作った制度を活用して節度使の力を弱めることに成功します。その基礎を作ったのが徳宗でした。
新しい税を導入
徳宗は両税法を導入しただけでなく。新しい税も作りました。
酒税、茶税を導入。採掘される鉱物や家屋にも税を掛けました。様々なものに税をかけました。
国の収入を増やしましたが、税の負担が増える庶民には不評でした。後にいくつかの税は廃止されました。茶税はその後の中華王朝でも採用され大きな収入の柱になっています。
茶は贅沢品なので高い税率をかけると買わなくなります。そこで税率を抑え、茶の効用を世間に広めて茶を飲む人を増やしました。こうして茶を飲む文化が広がります。
徳宗は若い頃は質素倹約をしていたのですが。税収が増えて余裕ができると贅沢になり、ました。藩鎮対策に失敗したので藩鎮には甘くなり、朝廷の力は弱いままでした。
貞元21年(805年)2月25日。死去。享年63歲。
息子の順宗が皇帝になりましたが。病気だったのですぐに譲位。
貞元21年(805年)9月5日。孫の憲宗が12代皇帝になりました。
徳宗のやろうとしたことはなかなか成果がでなかったのですが。税制を変えて朝廷の収入を増やしました。宦官に軍の指揮・監督権を与えたのも徳宗です。
孫の憲宗が徳宗の残した豊富な財源と宦官が指揮する軍を使い節度使の弱体化に成功。それはそれでまた別の問題が起こるのですが。とりあえずは憲宗が唐を立て直した皇帝とされます。
でも憲宗が唐の立て直しに成功したのも徳宗の行った政策の良い面を引き継ぎ、悪い面を教訓にできたからです。
母の沈氏を探し続ける
徳宗の生母は沈氏。民間伝承では 沈珍珠(しん・ちんじゅ)と呼ばれます。広平王(代宗)の側室でしたが、安史の乱で行方不明になっていました。
徳宗は即位後。生母沈氏に「睿貞皇太后」の称号を贈りました。
徳宗は生き別れになった母のことがわすれられず沈氏を探しました。
あるときは高力士の娘が沈珍珠なのではないかと噂されました。調べたところ別人でした。その後も沈珍珠が見つかったという噂もありました。その全てが偽物でした。偽沈珍珠事件が何度か起きています。
でも徳宗は何度騙されていい、母と会いたいのだ。と言って母親を探し続けました。
テレビドラマ
麗王別姫 2017年、中国 演:章哲諭、子役:董澤宸 役名:李适
万華楼 2020年、中国 演: 役名:皇太子
コメント