中国ドラマ「贅婿(ぜいせい)」には方天雷(ファン・ティエンレイ)という盗賊の親玉が登場します。
方天雷にはモデルになった人物がいます。
12世紀の北宋時代。大きな反乱を起こした方臘(ほう・ろう)です。
贅沢をして民を苦しめる宋に対して、方臘は「聖公」を名乗り民衆を集めて挙兵しました。一時は6州を占領しましたが。最終的には朝廷が派遣した討伐軍に敗北しています。
方臘の反乱は水滸伝のモデルにもなり。
ドラマ「贅婿(ぜいせい)」でも方天雷のモデルになりました。
方臘は史実でも架空の世界でも大きな影響を与えています。
そんな方臘はどのような人物だったのか紹介します。
ドラマ「贅婿(ぜいせい)」の方天雷
演:海一天
呂梁山青木寨大當家
妻:邵仙英
娘:方瓊:西北栄統領
養女:劉西瓜(劉大彪):霸刀営統領
武朝南部の盗賊を束ねる頭目。
賊たちからは「聖公」と呼ばれています。
霖安の占領を命令したのも方天雷。
方天雷は霖安の武器庫を手に入れ何か大きなことを起こそうとしています。
方天雷は最後は寧毅たちに捕まって朝廷に連行されます。
しかも方天雷の背後には黒幕がいました。朝廷のある大物とつながっているのですが。
方天雷のモデル方臘(ほう・ろう)
12世紀の中国。北宋の徽宗の時代に大きな勢力をもっていた盗賊の首領。
別名:方十三
方臘は睦州青溪県(現在の 浙江省 杭州市 淳安県)の出身。
方家は代々青溪県で暮らしていた土豪でした。
方臘はマニ教(明教)を広めていました。マニ教はササン朝ペルシャのマニが始めた宗教でゾロアスター教をもとにキリスト教・仏教が混ざった宗教です。
北宋の搾取に苦しむ民衆
12世紀ごろの宋(北宋)は、遼(契丹)や西夏(タングート)に歲幣(さいへい:毎年貢ぎ物を送ること)をしていました。
宋の皇帝 徽宗 趙佶(ちょう・きつ)は北宋最高の芸術家という人もいますが。君主としては無能。贅沢をして遊び暮らしていました。大規模な庭園作りが趣味で、国中から珍しい樹木や岩を集めてて自分の庭園に飾っていました。
江南地方(長江の南側)には珍しい樹木や岩がたくさんあるというので、徽宗は役人の朱勔に命令して集めさせました。徽宗が集めさせた樹木や岩を「花石綱」といいます。
朱勔は現地で樹木や岩を強制的に買い上げ、運河や陸路で首都・開封に運びました。輸送に邪魔な民家は撤去され、輸送にも民衆が駆り出されました。
そのため江南地方では不満をもつ者が大勢いました。
「聖公」を名乗り反乱を起こす
方臘は人々の不満が高まったのを利用して、貧しい人たちや失業者を集めて組織を作りました。
宣和二年(1120年)十月。方臘は自分で「聖公」と名乗り「永楽」という年号を作り、「民を苦しめる悪い役人を成敗せよ」とよびかけて反乱を起こしました。方臘のよびかけで青溪県中から1万人の民衆が集まりました。
方臘は官印を偽造。偽の許可証を作り政府の米蔵から食料を引き出し民衆に配っていました。こうして食料を配り支持者を集めていました。
方臘は地元の官軍5千を打ち破りました。方臘が官軍を破ったことが知れ渡ると處州の霍成富、陳箍も挙兵。衢州のマニ教団も挙兵しました。
方臘軍は最盛期には現在の江蘇省、浙江省、安徽省、江西省の6州52県を占領。地方政権並の力を持つようになり。宋にとって大きな脅威になりました。
さらに方臘軍は杭州に攻め込み、長官を殺害しました。
当時の北宋は金と同盟して遼を攻撃(北征)するための準備をしていました。そこで北征軍から15万人を出して童貫(どう・かん)を総司令官に任命。南征軍を編成しました。
童貫ひきいる南征軍は長江を渡り、方臘軍と戦いました。杭州で激しい戦いが行われました。方臘軍は20万の大軍になっていましたが。最終的に方臘軍は敗北。源洞に逃げ込みました。南征軍の王淵、韓世忠が兵を率いて突撃。源洞に立て籠もる方臘と幹部を捕らえました。
童貫は方臘を汴京(開封)に連行。方臘は処刑されました。
反乱軍の残党の討伐にさらに半年ほどかかりました。
方臘軍は二百万の民を殺害。多くの女性が連行され殺害されました。中国史の「大虐殺」は数字がおかしくて10倍多く書くこともよくあります。虐殺されたはずの人数が人口より多いなんてこともよくあります。本当に二百万人殺害したかどうかはともかく。犠牲は大きかったようです。朝廷が10万人規模の討伐軍を送らないといけないくらい大きな反乱でした。
方臘の乱の鎮圧に1年近くかかり大軍同士の戦いで江南の地は荒れ果てました。中国の場合。賊軍はもちろんですが官軍も略奪や虐殺をします。どちらが買っても負けても迷惑するのは地元民です。
江南はもともと食料生産や経済の中心地でした。この戦いで大きなダメージを受けて北宋は衰退します。
北宋の滅亡に関わる
北宋は遼に渡すぶんの歳弊を金に渡すことにして、その見返りに北宋と金は一緒に遼を攻めて都市を分け合うことにしていました。
ところが北宋軍が方臘軍と戦っている間に金が遼の都市を占領。遼を滅亡寸前まで追い込みます。北宋は金との約束に遅れましたが、それでも金は約束通り占領した都市を北宋に分けました。
でも北宋は金に歳弊を渡しません。しかも金が占領した土地が全部欲しい。北宋は金を裏切って遼と同盟、金と戦うことにしました。
たとえ万全でも強いとはいえない北宋の軍隊ですが。方臘軍との戦いで消耗。威勢だけはいい北宋の朝廷は金に戦争をしかけて敗退。
約束破りを繰り返す北宋に金は激怒。
逆に北宋は金に攻め込まれて徽宗は金に拉致され宋は一度滅亡。逃げ延びた皇族が南宋を建国します。
北宋が滅んだのは自業自得でしょう。でも方臘の反乱も多少は北宋の滅亡に関わっています。
でも方臘の反乱は徽宗がしっかり政治をしていれば起きなくてすむ反乱でした。
水滸伝のボスキャラのモデル
方臘の反乱は小説「水滸伝」のモデルにもなりました。
水滸伝の後半。梁山泊の豪傑たちは朝廷の命令をうけて南部の反乱軍と戦います。
反乱軍の親玉がそのモノズバリ「方臘」。最終的に方臘は水滸伝の豪傑たちに倒されます。
方臘は史実でも水滸伝の世界でもボスキャラ的存在です。
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