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耶律斜軫・遼を守り蕭太后を支えた将軍

契丹 9 その他の国や民族

耶律斜軫(やりつ・しゃしん)は10世紀の契丹(遼)の武将。

景宗、聖宗に仕えました。

遼(契丹)に攻めてきた宋との戦いでは何度も宋を撃退しています。

聖宗が皇帝になったときは12歳と幼く。蕭太后が摂政になりました。

このとき韓徳讓とともに蕭太后を支えました。

史実の耶律斜軫はどんな人物だったのか紹介します。

 

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耶律斜軫の史実

いつの時代の人?

生年月日:不明
没年月日:999年

姓 :耶律
名称:斜軫
字:韓隱

国:遼(契丹)
地位:南院大王→北院大王→太保
称号:魏王

祖父:耶律曷鲁
妻:蕭氏、蕭綽の姪
子:耶律狗児

彼は遼(契丹)の聖宗の時代に活躍しました。

日本では平安時代になります。

 

おいたち

耶律斜軫は子供のころから頭が良かったといいますが、遊び人でした。

保寧元年(969年)。枢密使・蕭思文が景宗 耶律明扆に推薦しました。

景宗は「私も知っているが、手におないのではないか?」と言うと。

蕭思文は「外見は荒々しく見えますが、彼の能力は計り知れません」と言うので景宗は耶律斜軫を呼び出して軍事と国政について質問してみました。すると耶律斜軫の答えは的を得たものだったので、景宗は斜軫を見直しました。

景宗は皇后 蕭綽の姪を耶律斜軫と結婚させ。西南方面の軍事を任せました。

また当時、北宋・太祖 趙匡胤に攻められた北漢の救援をするように命令しました。耶律斜軫は南院大王の耶律休哥とともに北漢の太原に向かいました。

その後。南院大王に任命されました。

保寧8年(976年)北院大王に任命されました。

乾亨元年(979年)。宋が燕雲十六州に侵攻。北院大王耶律奚底や統軍使 蕭討古が宋軍に敗北して清河の北に撤退。宋軍が南京(現在の北京)を包囲しました。

耶律斜軫は耶律奚底たちとともに宋軍を攻撃。耶律奚底がひきつけて耶律斜軫が後ろから攻撃。宋軍を撃破しました。

その後、耶律斜軫は高梁河で宋太宗 趙光義の率いる宋軍を迎え撃ちました。耶律斜軫は耶律休哥とともに左右から宋軍に攻撃をかけ撃破。高梁河(今北京西北)で耶律休哥と耶律斜軫は宋軍を迎え撃ちました。その戦いで宋太宗 趙光義が矢に当たりロバの荷車で逃亡すると、宋軍は散り散りになりました。

その後、北院枢密使に任命され、漢人の大臣・韓徳讓とともに政権を担当しました。

乾亨4年(982年)4月。遼景宗が宋に遠征。満城に到達。ところが耶律奚瓦が宋軍と戦って戦死。統軍使 耶律善補が宋軍の待ち伏せにあって包囲されてしまいました。このとき耶律斜軫が救援にかけつけて 耶律善補は助かりました。景宗は耶律善補を守りを怠ったとして杖刑にしました。

 

聖宗の時代

乾亨4年(982年)。景宗が死去。景宗の長男・聖宗 耶律隆文殊奴が即位。皇后蕭綽は皇太后になりました。

でも聖宗はまだ12歳。蕭綽が攝政をすることになりました。

耶律斜軫は韓徳讓とともに蕭綽から信頼され北院枢密使を任されました。

雍熙北伐

山西軍の総指揮を担当

統和4年(986年)。宋太宗は遼で幼い皇帝が即位した今が攻撃のチャンスを考え、契丹に3つの大規模な軍を派遣しました。この作戦を宋では「雍熙北伐」と言います。宋軍の攻撃で雲州、雄州、易州、涿州が占領されました。太后蕭綽は自ら軍を率いて救援に向かいました。

西から向かって来る宋軍の迎撃は耶律斜軫が担当することになりました。

耶律斜軫は定安まで来ると宋の将軍・賀令圖の軍と戦って打ち破りました。

蔚州を奪回

次の日、蔚州に到達。城を占領した宋軍は籠城して出てきません。耶律斜軫は矢文で降伏するよう求めましたが。宋軍は無視しました。耶律斜軫は偶然にも潘美の使者を捕まえ、援軍が来ることを知りました。そこで使者を買収。「城で待機しろ。援軍が来るので内と外から挟み撃ちにしろ」と書いた手紙を持たせて城に送りました。

また将軍の耶律題子に命令して宋の援軍が来るであろう道で待ち伏せさせ、宋の援軍を撃破しました。

宋の旗と撤退する契丹軍を見た城兵たちは門をあけて外に出ました。そこに耶律斜軫の兵が襲いかかり宋軍を壊滅させ、蔚州城を奪回しました。

宋の名将・楊業を捉える

宋の西路軍を指揮していた潘美は東路軍の敗戦を聞いても占領地を守ろうとしました。

放棄して逃走。楊業が向かって来ることを知った耶律斜軫は蕭撻凜に命じて待ち伏せさせました。楊業が攻めてくると耶律斜軫は撤退するふりをして引き付け。楊業軍が狼牙村まで来た時、そこに待機していた伏兵が襲いかかり、楊業軍は壊滅。

耶律斜軫は楊業の生け捕りを命令。楊業を捕虜にしました。楊業は契丹との戦いでも手柄をたてたことのある名将なので契丹でも知られていたのです。

運ばれてきた楊業を見て耶律斜軫が「楊業かお前は10年以上我々と戦ってきたのに今は囚われの身だ。何か言うことはあるか?」と言うと。楊業は悔しさのあまり何も言いませんでした。そして、耶律斜軫は楊業を連行しましたが楊業は絶食して餓死しました。

耶律斜軫が凱旋すると蕭太后が出迎えて歓迎しました。

また、蕭太后は楊業の死を聞くと残念そうにしました。後に楊業の祠を建てさせました。

楊業は最後まで宋に忠義を尽くして死んだとして称賛され。楊業とその子らは「楊家将演義」など様々な小説の題材になりました。ただし楊家の物語は大幅に脚色されて宋が遼に勝つ内容になっているので耶律斜軫がそのまま出てくることはあまりありません。

 

戦いの後。耶律斜軫は「太保(皇帝の補佐役)」になり、「魏王」の爵位を与えられました。

統和17年(999年)。蕭太后の南征に同行。陣中で病死しました。

 

テレビドラマ

燕雲台 2020年。演:於濟瑋

 

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