嫡福普 瓜爾佳(グワルギャ、かじか)氏は清朝の第12代皇帝 宣統帝 溥儀の生母です。
本名は幼蘭(ようらん)
西太后の腹心・栄禄の娘です。
醇親王 載灃と結婚しました。
長男・溥儀が生まれます。溥儀は西太后に認められ皇帝の跡継ぎになりました。
しかし溥儀が15歳のとき、瓜爾佳氏はなくなってしまいます。
史実の瓜爾佳 幼蘭 はどんな人物だったのか紹介します。
嫡福普 瓜爾佳氏 の史実
いつの時代の人?
生年月日:1884年
没年月日:1921年10月1日
姓:瓜爾佳(かじか、グワルギャ)氏
名:幼蘭(ようらん、ヨーラン)
幼名:福妞児、八妞
地位:嫡福普
旗籍:満洲正白旗
父:栄禄(えいろく、ロンルー)
母:側福普 劉佳氏
夫:醇親王 載灃(さいふう、ツァイフォン)
子供
男:溥儀(清朝皇帝)、溥傑
女:韞媖、韞和、韞穎
清朝・第12代皇帝の溥儀の生母です。
日本では明治時代になります。
おいたち
光緒10年(1884年)に生まれました。
父は栄禄
清朝の軍人・政治家。慈禧太后(西太后)に仕えていました。
母は栄禄の妾 劉夫人
成人後の名前は幼蘭
醇親王 載灃と結婚
光緒27年(1901年)11月26日。幼蘭と醇親王 載灃(ツァイフォン)に結婚の許可を与えました。二人の結婚は慈禧太后(西太后)の命令です。
ところが載灃の生母・側福普 劉佳氏はすでに載灃の結婚相手を決めていました。両家の間では正式な約束をかわしていて。あとは吉日を待って婚儀を行うだけ。というところまで話は進んでいました。
ところが西太后の強引な命令で結婚の約束は反故にされ。側福普 劉佳氏は激怒しましたが、西太后が相手ではどうにもなりません。
結局、載灃と幼蘭の結婚が決定しました。
慈禧太后(西太后)は幼蘭の生母・劉夫人に「正一品夫人」の位を与えました。劉夫人は正室になったという人もいれば、側福普になったという人もいます。劉夫人に親王の妻の生母に相応しい格式を与えたのです。
光緒28年7月18日(1902年8月21日)。載灃は栄禄の屋敷に行って盛大な結婚式をあげました。
瓜爾佳 幼蘭は醇親王載灃の嫡福普になりました。
9月。載灃と嫡福普 瓜爾佳氏は宮中に挨拶に行きました。
二人の結婚は清国内にいた外国人の間でも話題になりました。醇親王載灃の結婚については物議を醸しただけに嫡福普 瓜爾佳氏は「恐れを知らない女だ」などいろいろと噂をたてられることもあったようです。
光緒32年(1906年)。瓜爾佳氏は長男・溥儀を出産。
その後も、1男3女を出産しました。
光緒34年(1908年10月20日)。溥儀は西太后に謁見。西太后の命令で次の皇帝に決まりました。
光緒帝が死去。西太后はすぐに溥儀を連れてくるように命令。溥儀は宮中で育てられることになりました。
報告を受けた醇親王府は大混乱。溥儀の祖母・劉佳氏は卒倒しました。
溥儀は連れに来た役人を叩いて抵抗しましたが、溥儀の乳母・王焦氏が抱き抱えて連れて行きました。
溥儀は幼蘭のもとを離れて皇宮に入りました。
その後、光緒帝が崩御。
息子の溥儀が皇帝になる
1908年12月2日。溥儀が第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位しました。溥儀は3歳(数え歳)でした。
醇親王 載灃が摂政になり政治を行いました。
1911年。夫の醇親王 載灃が妾をもち数人の子供が生まれました。
清朝の終わり
1911年10月10日。辛亥革命が起こりました。
1912年2月12日。宣統帝が退位。清朝は滅亡しました。
でも民国政府との間で紫禁城の皇族は残ることになりました。
溥儀は名前だけの皇帝として残っていました。
清朝の旧臣たちは清朝を復興させようとしました。幼蘭と夫・醇親王 載灃もその中心にいました。でも夫婦の考えは違いました。
醇親王 載灃は新政府で権力を握っている袁世凱を憎みました。
幼蘭たちは袁世凱を味方にして清朝を復興させようとしました。袁世凱は清朝が倒れたのは孫文のせいだと言い、幼蘭も袁世凱の言葉を信じて彼に望みを託しました。
ところが思わぬ出来事が起きてしまいます。
自殺未遂
1515年12月12日。野心家の袁世凱(えん・せいがい)が中華帝国 皇帝に就任しました。
幼蘭は袁世凱なら清朝を復興させてくれると期待していました。ところが幼蘭の期待は裏切られました。息子の皇帝復活の可能性を奪ったのは、期待をかけた袁世凱でした。
幼蘭は絶望して死を決意。きれいに着飾って酒とアヘンを用意。一気に飲み込んで自殺しようとしました。このときは使用人に見つかって命はとりとめました。
中華民国時代
1916年。敬懿皇貴妃が幼蘭のもとに使者を派遣。紫禁城内で家族会が開催され、嫡福普 瓜爾佳氏 幼蘭は久しぶりに溥儀に会いました。
やがて成長した溥儀は端康太妃と激しく対立するようになります。西太后亡き後の後宮では端康太妃が大きな権力を持っていました。
溥儀は自分の思いどおりにしようとする端康太妃とは仲がよくありませんでした。
1921年10月1日。幼蘭は醇親王の生母・劉佳氏とともに宮中に呼びされ。「溥儀のしつけができていない」と端康太妃から激しく叱られ。二人は長時間跪かされました。
2歳ちょっとの子供を連れて行かれてしつけも何もありません。むしろしつけは宮中で行なったはずなのに不条理です。
幼蘭はお嬢様育ちできつく怒られたことがありません。侮辱的な扱いをされたこともありません。宮中での仕置がよほど屈辱的だったのか屋敷に戻った幼蘭はアヘンを飲んで自殺しました。
享年37歳。
溥儀には母が自殺したことは秘密にされました。溥儀は母は脳卒中で死んだと知らされました。
母が端康太妃から激しく叱られ罰を受けて自殺したと聞かされていたら宮中での行いも変わっていたかもしれません。
溥儀と端康太妃が対立した理由
瓜爾佳氏が自殺する原因になった溥儀と端康太妃の対立ですが。
何故争ったかは諸説あります。
宮中の伝説では端康太妃が溥儀を中華民国総統 徐世昌の娘と結婚させようとしたものの、嫡福普 瓜爾佳氏はすでに決めた人がいたので二人が激しく対立したとも言われます。
溥儀の回想録では太医院の范一梅の解雇を巡って端康太妃と対立したからだと書かれています。
溥儀が大好きだった乳母を宮中から追い出したのも端康太妃でした。もともと溥儀が端康太妃はうまくいってなかったのかもしれません。
ドラマと映画
映画
ラストエンペラー(The last Emperor) 1987年、伊・中・英・仏・米 合作。 演:リャン・ドン
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