仁徳皇后 蕭菩薩哥(しょう・ぼさつか)は10世紀の契丹(遼)の皇后。
仁徳蕭皇后ともいいます。
第6代皇帝 聖宗 耶律文殊奴の二人目の正室です。
景宗~聖宗時代の重臣・韓徳讓(耶律隆運)の姪になります。
子供がなかったので側室の蕭耨斤の子・耶律只骨を養子にしました。
しかし聖宗の死後、蕭耨斤によって罪を被せられ上京に流され自害しました。
史実のは蕭菩薩哥はどんな人物だったのか紹介します。
仁徳皇后 蕭菩薩哥の史実
いつの時代の人?
生年月日:983年
没年月日:1032年
姓 :蕭(しょう)氏
名称:菩薩哥(ぼさつか)
国:大契丹国(遼)
地位:皇后→貴妃
称号:斉天皇后→仁徳皇后
父:蕭隗因(睿智皇后 蕭綽の従兄弟)
母:韓氏(韓匡嗣の娘)
夫:聖宗 耶律文殊奴
子供:2人早世。
養子:興宗 耶律只骨
彼は5代 聖宗、6代興宗の時代に生きました。
日本では平安時代になります。
聖宗 耶律文殊奴の時代
統和元年(983年)に誕生。
父は興軍節度使の蕭隗因(しょう・かいいん)
聖宗の母・睿智蕭皇后の従兄弟です。
母は韓匡嗣の娘。
蕭菩薩哥は景宗~聖宗時代の重臣・韓徳讓(耶律隆運)の姪(妹の子)になります。
12歳のとき。美貌と才能を買われて後宮に入りました。蕭菩薩哥は承天皇太后 蕭綽によく仕えたので皇太后から大変気に入られました。
このときには聖宗にはすでに蕭皇后がいました。
蕭菩薩哥は側室の一人でした。
統和19年(1001年)。理由はわかりませんが蕭皇后が貴妃に降格。
次に皇后になったのが16歳の蕭菩薩哥でした。
斉天皇后の称号が与えられました。
統和27年(1009年)。承天皇太后 蕭綽が亡くなると次第に政治に介入するようになりました。
宮闈司という部署を作り役人を任命して命令を出すようになりました。
皇子2人を生みましたが、どちらも早くに亡くなりました。
蕭耨斤との確執
開泰5年(1016年)。宮人・蕭耨斤(後の欽哀皇后)が耶律只骨(後の興宗)を出産。すると、斉天皇后には子がなかったので只骨を養子として育てることになりました。
でも子供を取られた蕭耨斤は不満です。そこで蕭耨斤は宦官の趙安仁に命令して斉天皇后の行動をスパイさせ、皇后の行動を報告させました。
しかし斉天皇后の力を恐れて北宋に逃げようとしました。それもみつかり趙安仁は斉天皇后に殺されそうになりましたが、蕭耨斤が聖宗に助けるようにお願いしたので趙安仁は助かりました。
斉天皇后は琵琶の名人でした。あるとき蕭耨斤は「斉天皇后が琵琶奏者の燕文顯、李有文と不倫している」と聖宗に伝えましたが。聖宗は無視しました。また、聖宗は枕元に契丹文字で書かれた蕭菩薩哥を告発する文書があるのを見つけましたが、聖宗は蕭耨斤の仕業だと思って燃やしました。
太平11年(1031年)。聖宗が危篤状態になりました。
すると蕭耨斤は蕭菩薩哥に「老いぼれの寵愛はまだあるのか」と罵りました。蕭菩薩哥は従者に抱えられて部屋を出ました。
聖宗は耶律只骨を呼んでこう言いました「皇后は40年間私に仕えたが子供がいなかったのでお前を跡継ぎにしたのだ。お前たち母子は彼女を殺してはいけない」
そして蕭菩薩哥を「皇太后」、蕭耨斤を「皇太妃」にするように言いました。
聖宗が死去。
興宗 耶律只骨の時代
景福元年11年(1031年6月)。興宗 耶律只骨が即位しました。興宗はこのとき15歳。
ところが蕭耨斤は聖宗の遺言を隠して自分が皇太后になりました。
流罪になる
蕭耨斤は護衛の馮家奴や耶律喜孫らを使って北府宰相の蕭浞卜、国舅・蕭匹敵に謀反の罪をかぶせました。蕭菩薩哥も連座で罪が被せられました。
蕭匹敵たちは蕭菩薩哥と親しかった重臣です。蕭耨斤はまず彼らを排除して蕭菩薩哥を始末しようと考えたのでした。
興宗 耶律只骨は「皇后は先帝に40年も仕え、私を育ててくれたのです。皇太后になるべきではありませんか?それをしないばかりか彼女を罰しようとしている。なぜそんなことができるのですか」と言いました。
すると蕭耨斤は「もしこの人がここにいたら問題になるのではと心配なのです」
興宗 耶律只骨は「彼女は年老いて子供もいません。ここにいてもたいしたことはできないでしょう」
しかし蕭耨斤は聞く耳をもたず蕭菩薩哥は上京に移されました。
無実の罪で自害
重熙元年(1032年)3月。興宗 耶律只骨は春の狩りに出かけました。
蕭耨斤は、興宗が今でも蕭菩薩哥を育ての親と慕っているので蕭菩薩哥を消してしまおうと思い。罪をでっち上げて殺害しようと蕭菩薩哥のところに使者を派遣しました。
蕭菩薩哥のところに使者がやって来ました。すると蕭菩薩哥は「私は本当に無罪です。それは天下の人々が知るところです。今から沐浴しますからその後にしなさい。よろしいか」と言うと使者は下がりました。
使者が戻ってくると蕭菩薩哥は自害していました。
享年50。
蕭耨斤は摂政皇太后になりました。
その後、蕭菩薩哥に仕えた者たち100人あまりが殺害され。蕭菩薩哥は祖州の白馬山に庶人として埋葬されました。
死後、名誉回復
重熙3年(1034年)。蕭耨斤は自分の言いなりになる次男の耶律重元を皇帝にしようとしました。そこで興宗 耶律只骨は蕭耨斤を軟禁しました。
白馬山の粗末な墓に行き父の言葉を思い出して「もっと早く今日のような日がきていたら、あなたがこんなになることはなかったのに」と言って悔みました。
重熙21年(1052年)。興宗の晩年蕭菩薩哥に「仁徳皇后」の称号が送られました。
欽哀皇后(蕭耨斤)とともに慶陵に陪葬されました。
テレビドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:楊雨潼・陶奕希
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