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長歌行:涉爾のモデル・阿史那 社爾は突厥から唐に降伏し数々の戦いで功績をあげた称軍

唐朝 5.4 隋唐 臣下・人々

阿史那 社爾(あしな・しゃじ)は7世紀の突厥の王族で、後に唐の将軍になった人物。

ドラマ「長歌行」の阿詩勒涉爾(アシラ・シャアル)
漫画「長歌行」の阿史那涉爾(アシナ・シャアル)のモデルになった人物です。

東突厥の王族の家系に生まれました。十代のころから部落(民の集団)をまとめました。

やがて民を率いて東突厥を離れ、内乱の続く西突厥を襲撃。10万の民を配下におくと自ら可汗を名乗りました。

しかしその後、薛延陀に敗北。唐に降伏しました。

唐の将軍になった社爾は数々の戦いで功績をあげ。太宗 李世民からも信頼されました。

史実の阿史那 社爾はどんな人物だったのか紹介します。

 

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阿史那 社爾の史実

いつの時代の人?

生年月日:609年
没年月日:655年

姓 :阿史那(あしな)氏
名称:社爾(しゃじ)

国:東突厥→唐

父:処羅可汗
母:
妻:衡陽公主(高祖 李淵の14女)

子供:阿史那道真

日本では飛鳥時代になります。

 

東突厥の時代

阿史那 社爾(あしな・しゃじ)は東突厥の処羅可汗(しょらかがん)の次男として生まれました。

社爾が生まれたころ、かつてモンゴル高原を支配した突厥帝国は東西に分裂。東突厥内部でも争いが起こり、ますます混乱している時代でした。

社爾は11歳のときから勇敢さと知略に優れ、拓設(突厥の役職)に任命され、頡利可汗の子の欲谷設とともに鉄勒、薛延陀などの部族を統率しました。

彼は10年間、人々をまとめました。権力や贅沢を求めず「部落が豊かになれば、それで十分だ」と語っていました。

処羅可汗の死後、頡利可汗(けつりかがん)が即位。

626年(武徳9年)。頡利可汗は10万の軍を率いて唐を攻撃。社爾は戦はやめさせようとしましたが、頡利可汗は社爾の言うことを聞きませんでした。突厥軍が長安の目前まで攻め込むと李世民は突厥に金と絹を払うことを約束。両軍は和睦しました(渭水之盟)。

627年(貞観元年)。鉄勒(てつろく)、ウイグル、薛延陀(せつえんだ)などが突厥に反乱を起こしました。頡利可汗は欲谷設を派遣しましたが、馬猟山の戦いで敗北。社爾は欲谷設の救援に向かいましたが社爾も薛延陀に敗れました。

このとき同じように欲谷設の救援に向かった突利可汗も敗北。怒った頡利可汗は突利可汗を拘束。突利可汗は頡利可汗を恨むようになります。

記録にはありませんが、社爾を罰を受けた可能性が高く。後に頡利可汗から離反する原因になったと考えられます。

 

都布可汗を自称

628年(貞観2年)。社爾は部族を率いて東突厥から離れて西に向かい、可汗浮図城(現在の新疆、吉木薩爾北部)を拠点にしました。

629年。東突厥で大雪が降り多くの家畜が死亡。多くの者が頡利可汗のもとを去りました。さらに唐軍の遠征が行われ、東突厥は壊滅的な打撃を受けました。

630年。頡利可汗は唐に降伏。唐太宗の臣下になり東突厥は滅亡しました。同じ年、西突厥の統葉護可汗も死亡。

遊牧民の部族長たちは集まり李世民にテンゲルカガン(天可汗)の称号を与えました。

東突厥は唐に降伏したものの、西突厥には唐の支配は及んでいません。西突厥では可汗の座を巡って争いが起きました。奚利邲咄陸可汗と泥孰可汗の兄弟が争い始めます。すると社爾は兵を率いて混乱している西突厥を襲撃。西突厥の半国を支配下にしました。支配下の民は10万人以上に増え、社爾は都布可汗と名乗りました。

 

薛延陀への復讐

社爾は薛延陀への復讐を計画。多くの臣下が反対しましたが、社爾は聞きませんでした。

社爾は5万以上の騎兵を率いて薛延陀を攻撃。しかし100日以上もの激戦が続き、部下の士気が低下、多くの兵士が逃走しました。そのとき薛延陀の攻撃を受けて社爾は敗北。兵力は1万人ほどに減って高昌に撤退しました。

社爾は西突厥の支配を諦め、635年。部衆を率いて唐に降伏しました。

 

唐の時代

635年(貞観9年)。唐に亡命した社爾は左騎衛大将軍に任命されました。

1年後。唐太宗の妹・衡陽長公主と結婚。駙馬都尉になり、禁苑内の兵を指揮しました。

高昌攻略

640年(貞観14年)。社爾は行軍総管として高昌を攻略しました。このとき他の将軍はすぐに報酬を受けましたが、社爾は詔書を受け取っていないと主張。報酬を受け取りませんでした。そのため帰還時には財宝はほとんど残っていませんでした。

李世民は社爾の潔さを高く評価。高昌から持ち帰った宝刀と綾絹を贈り、彼を北門左屯営の検校に任命し、畢国公の爵位を与えました。

高句麗・薛延陀との戦い

645年(貞観19年)。社爾は高句麗遠征に参戦。この戦いで流れ矢を受けましたが矢を抜いて戦い功績を挙げました。

薛延陀への遠征にも参戦。数々の軍功を立てました。彼は鴻臚卿の職を兼任しました。

 

亀茲攻略

貞観21年(647年)。社爾は崑丘道行軍大総管に任命され、西域への軍事行動を指揮しました。

648年。西突厥の領土に侵入して処蜜と処月を攻撃、撃破しました。兵を率いて焉耆の西部から直接、亀茲(きじ、オアシス都市国家、現在の新疆ウイグル自治区クチャ市)の北部国境に進軍を開始しました。

焉耆の国王 薛婆阿那支を捕らえ、彼の弟 先那准を国王に即位させました。この出来事を知った亀茲は動揺し、城の守備兵士の多くが城を放棄して逃げました。

唐軍は進軍して磧石に到着。伊州刺史の韓威を先鋒、右驍衛将軍の曹継叔を後詰めにして進軍させました。多褐城(現在の新疆、輪台西)では亀茲王の白訶黎布失畢が5万人の軍を率いて迎え撃って来ました。韓威と曹継叔は亀茲王の軍と激戦を行い亀茲王を破りました。社爾は亀茲の都城を攻略。亀茲王は逃走しました。

社爾は郭孝恪に城を守らせると自ら騎兵を率いて追撃。大撥換城で亀茲王と大臣那利らを生け捕りにしました。さらに社爾は亀茲の五つの城を降伏させました。

社爾は配下に命じて各城に行って降伏を促すように命令。すると各城が次々と降伏。小さな街も含めて700以上を占領、数万人を捕虜にしました。

社爾は都市の長老たちを集めると戦没者に慰霊、過ちを償う意志を宣言、王の弟・葉護を亀茲の新王として即位させました。

亀茲の敗北を知った西域の人々は驚き、西突厥、于闐などの国々が唐に駱駝や軍需物資を送るようになりました。

彼は功績を刻んだ石を持って帰国。このとき郭孝恪は戦利品の金玉で身を飾り、社爾にも贈りましたが社爾は受け取りませんでした。

殉死を希望

太宗はそれを聞いて「二将の優劣は人に問うまでもない」と言いました。

649年(貞観23年)。太宗 李世民が死去。
社爾は昭陵を守り抜く覚悟で殉死を希望しましたが、高宗 李治に断られました。代わりに社爾は右衛大将軍に昇進。永徽4年に鎮軍大将軍に任命されました。

655年(永徽6年)に47歳で死亡。輔国大将軍と并州都督の地位が贈られ、昭陵に葬られました。彼の墓は蔥山の形を模して築かれ、功績を刻んだ碑が建てられました。

 

テレビドラマ

長歌行 2021年、中国 演:庫都斯江·艾尼娃爾 役名:阿詩勒涉爾(アシラ・シャアル)

阿詩勒部小可汗兼狼師首領。
彼の父は前代の大可汗舒勒可汗。現在の大可汗は彼の叔父です。彼の母は隋の奕承公主。長老たちが彼を唆したため阿詩勒隼に対抗意識をもち彼を排除しようとしました。実際には優しい性格で、彌彌古麗が好きでした。

 

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