朱元璋(しゅ・げんしょう)は明の初代皇帝。太祖。
洪武帝(こうぶてい)ともいいます。
元朝の末期に貧しい農家の子として生まれましたが。親を失い僧侶になっていたところ、紅巾軍に参加。
その後は、紅巾軍の中で出世して軍団を率いるまでになりました。
華南の地で勢力争いに勝ち残り。皇帝になり、明を建国します。
この記事では朱元璋の誕生から明を建国するまでを紹介します。
朱元璋の史実
いつの時代の人?
生年月日:1328年10月29日
没年月日:1398年6月24日
享年:69歲
姓:朱(しゅ)
名:重八→興宗→元璋(げんしょう)
字:國瑞
国:明
称号:呉王
父:朱世珍
母:陳氏
妻:馬氏
子供:
日本では室町時代になります。
朱元璋の生涯
貧しい農家の出身だった朱重八
元の文宗の時代。
天曆元年9月18日(1328年10月29日)。朱元璋は安徽省鳳陽県で生まれました。
最初の名前は重八。彼は三男でした。
祖先は百年以上前に江蘇省に移り住み、以来代々農家を営んでいました。
父は朱五四(後に世珍と改名)
母は陳氏。
朱重八(元璋)の家は貧しく、両親は元璋を地主の牧童として奉公に出しました。元璋は牧童仲間の間ではリーダー格でした。
正治4(1344年)。朱元璋が17歳のとき。淮北で大旱魃が発生。飢饉や慷慨が起こりました。父や兄、母が次々と亡くなりました。
僧侶になる
朱重八は皇覚寺に入りました。でも凶作で寺院にも十分な蓄えはありません。小坊主たちは家に戻されたり托鉢に出たりしました。でも朱重八には戻る家はありません。50日ほどたったころ朱重八は托鉢に出ました。托鉢と言えば聞こえはいいですが、自分で食べ物を調達して生きろというのです。
朱重八は3年間、淮西、汝潁、泗などを放浪。この地域は白蓮教が活動している場所。世間では「明王出世、普度衆生」の言葉が広まっていました。朱重八も放浪生活のなかで白蓮教の教えに触れました。
その後、皇覚寺に戻り和尚のもとで読経と修行の日々を送っていました。つまり朱重八は文字の読み書きはできます。
このころ近所の若者たちとも交流して世の中の情報を集めました。湯和や徐達と知り合ったのもこのころです。
紅巾軍に参加・朱元璋と名乗る
紅巾軍への誘い
この時期、各地で白蓮教の信徒たちが反乱を起こしていました。彼らは赤い頭巾をしていたので「紅巾軍」と呼ばれていました。
至正12年(1352年)2月。皇覚寺にいた朱重八は先に紅巾軍に入隊していた湯和から手紙を受け取りました。紅巾軍が兵を集めているで参加しないか、というのです。でも朱重八は紅巾軍は評判が悪いので参加を迷っていました。
紅巾軍に参加
あるとき反乱軍鎮圧のため出動した元軍に寺が焼かれてしまいます。反乱軍の根城と思われたようです。
朱重八は無事でしたが行くあてのないこともあり、郭子興の軍に参加することにしました。
ところが朱重八が郭子興の所に行ったところ、門番に間諜と間違われ縛られてしまいます。でも誤解は解けて兵士として参加を許されました。
朱重八は先頭にたって戦いました。指揮能力が優れていたですぐに兵を与える隊長になり活躍。郭子興の信頼を得ました。
郭子興の養女と結婚、朱元璋と名乗る
郭子興は朱元璋を側近としてとりたて「元璋」の名を与え、小張夫人の勧めもあり養女の馬氏を朱元璋と結婚させました。
ところが郭子興は猜疑心が強く、朱元璋が手柄を立てると彼を妬み。他の者達の言葉に惑わされて朱元璋を叱ったり、罰を与えることもありました。
濠州紅巾軍の内紛
やがて濠州の紅巾軍の中で内紛が起こりました。しかも元軍との戦いで兵が減ってしまいます。
そこで朱元璋は郭子興の許可を得て兵士募集のために郷里に戻り700人の兵士を集めました。友人の徐達たちもこのとき軍に参加しました。郭子興は喜び朱元璋を鎮撫に任命しました。
しかし濠州紅巾軍内の争いは相変わらずでした。郭子興と孫徳崖、趙均用は対立しています。
独立行動する朱元璋
内紛に嫌気がした朱元璋は24人の仲間と僅かな兵を連れて南下。この時一緒に行動した徐達や湯和たちは後に明の重臣になっています。
当時は元の官軍が弱体化。治安維持もできなくなったので各地で自衛のため人々が武装集団を結成。中には略奪を行ったり勢力拡大を狙う者もいました。
朱元璋はそういった武装集団を次々に攻略、兵士を増やしていきました。朱元璋の部隊は2万の大軍団になります。
至正14年(1354年)。朱元璋の部隊は滁州を攻略。初めて自分の拠点になる土地を手に入れました。
このころ李善長が朱元璋のもとにやってきました。朱元璋は李善長を気に入って参謀にしました。
その後、濠州の郭子興が孫徳崖と趙均用に追い出され、滁州にやってきました。朱元璋は郭子興を迎え滁州の兵権を譲りました。
至正15年(1355年)1月。食料不足に悩まされていた朱元璋は和州(安微省)を攻略。
ところが和州の占領後、将兵たちは略奪や婦女暴行を繰り返していました。そこで朱元璋は諸将を集めて規律を正すように命じました。
至正15年(1355年)3月。かつて対立していた孫徳壁が食糧難のため和州にやってきて助けを求めました。すると郭子興がやってきて孫徳壁と郭子興は対立。一時、朱元璋が囚われる騒ぎになりましたが開放されました。
その後、郭子興が病死。
大宋(韓宋)時代
白蓮教と紅巾軍
元朝では白蓮教が流行っていました。白蓮教はマニ教やゾロアスター教、弥勒教など様々な宗教が混ざった宗教です。救世主(明王や弥勒)が現れてこの世を救うと信じられ、貧しい人たちには人気がありました。そのぶん反体制派とは結びつきやすく朝廷からも危険視されていました。
至正11年に白蓮教の教主・韓山童は武装集団の劉福通たちと挙兵する予定でしたが計画が元朝にバレて処刑されました。そこで劉福通は韓山童なしで反乱を起こします。彼らは赤い頭巾をしていたので紅巾軍と呼ばれました。
もともとは郭子興も劉福通に影響を受けて挙兵したので紅巾軍は劉福通の方が本家といえます。
大宋(韓宋)の建国
郭子興が死亡するより少し前。至正15年(1355年)2月。劉福通たちはようやく韓山童の息子・韓林児を見つけて北宋の都だった開封を占領。韓林児を皇帝に担いで「大宋(韓宋)」の建国を宣言しました。
韓林児は「小明王」と呼ばれました。明王 韓山童の子供だからです。
元を倒して宋の復活を掲げる「大宋(韓宋)」の名声は高まり、元朝も対処に追われました。
小明王の配下になる
郭子興の死後。軍団は求心力を失い崩壊の危機にありました。そこで郭子興の妻の弟・張天佑と郭子興の息子・郭天叙は韓宋の小明王 韓林児の権威を借りました。
小明王 韓林児は郭天叙を都元帥、張天佑を右副元帥、朱元璋を左副元帥に任命。
小明王に従うのは郭天叙たちが勝手に進めたようで、朱元璋は不満でした。でも独立できるほどの力はありません。そこで朱元璋は韓宋の軍とは別行動をとりながらも小明王の権威を利用します。韓宋が決めた「龍鳳」の年号を使用しました。
集慶(南京)占領
数万の兵を養う食料に困っていた朱元璋はより豊かな集慶(南京)を狙いました。かつて孫権の呉や南宋が都をおいた裕福な大都市です。ここを拠点にできれば大きな勢力になることもできます。
長江を渡るための船がありませんでしたが、海賊を配下にして長江を渡り太平府を占領。朱元璋は大元帥を名乗ります。しかし朱元璋の地位の高まりに焦った郭天叙と張天佑が独自に出陣して戦死。郭子興の残した勢力は完全に朱元璋のものになりました。しかし世間的には 大宋(韓宋)の臣下を名乗り続けました。
その後、集慶を攻撃。さすがに元軍の抵抗は激しく簡単には攻略できません。
至正16(1356年)。再び集慶を攻撃して激戦の末占領しました。集慶城の兵を接収。集慶を応天府と改名しました。
当時は略奪暴行は当たり前でしたが、朱元璋は略奪暴行を禁止。将兵が違反したら即処刑して人々を安心させました。
小明王 韓林児はこの報告を受け朱元璋を江南等処行中書省平章に任命。朱元璋は応天で天興建康翼大元帥府を設置し、廖永安を統軍元帥に、李善長を左右司郎中に任命しました。
元軍との戦い
しかし応天府の周囲は元軍や様々な勢力に囲まれています。
朱元璋はまずは南の元軍を攻撃。安微、江蘇、浙江を占領。それとともに朱升や劉基といった儒学者の協力を得て行政組織を整備、治安の回復、荒れ果てた農地の復興をさせました。
朱元璋にとって都合良かったのは元朝が北の大宋(韓宋)との戦いに追われて南に兵力を振り向ける余裕がなかったことです。その隙に朱元璋や反乱勢力が力を付けていました。
陳友諒との戦い
朱元璋が周辺の元軍を倒した至正20(1360年)ごろ。次に脅威になりそうなのは陳友諒と張士誠の勢力でした。
陳友諒は西系紅巾軍の徐壽輝のもとにいた人物。徐壽輝は皇帝を名乗り天完国を建国しました。ところが内紛がおきて陳友諒が徐壽輝を殺害、陳友諒は皇帝を名乗り国号を「漢」にしました。
その後、陳友諒は応天府を攻撃。朱元璋は胡大海に信州を攻略させて陳友諒の援軍を断ち。康茂才が陳友諒の知人だったので、戦いが始まったら陳友諒に寝返ると手紙を書かせ。それを信じて漢軍が攻撃してきたところに伏兵を配置して迎え撃ちました。陳友諒の漢軍は朱元璋軍に大敗。その後朱元璋は太平や安慶、信州などを攻略。
至正21年(1361年)。江州や南康、建昌、撫州などを攻略。翌年には、龍興を占領しました。
小明王の救出
張士誠は塩商人から軍閥になり「呉王」を名乗っていました。
至正23年(1363年)。張士誠は将軍の呂珍を派遣して安豊の小明王 韓林児と丞相の劉福通を包囲。朱元璋は劉基の反対を無視して小明王 韓林児の救出に向かいました。劉福通は戦死したものの、韓林児の救出は成功。朱元璋は応天を大宋の都にして韓林児を皇帝として迎え入れようとしました。でも劉基が反対。
朱元璋は韓林児を滁州に移し形だけの大宋を残しました。
鄱陽湖の戦い
朱元璋が韓林児を救援に向かっている間。陳友諒の漢軍は60万の水軍を率いて朱元璋の拠点・洪都を攻撃しました。朱元璋の甥・朱文正が洪都を二ヶ月以上も守り、その間に朱元璋が20万の部隊を率いて救援に駆けつけました。
陳友諒と朱元璋は鄱陽湖で戦いました。陳友諒は大型船を多数持っている陳友諒軍が優勢でしたが、朱元璋は小型船で火攻めして陳友諒の部隊に大きな損害を与えました。その後、鄱陽湖の水位が低下して小舟が活動しやすくなると陳友諒を包囲しました。陳友諒は矢に当たって戦死。漢軍は敗走しました。
ちなみに「鄱陽湖の戦い」は小説「三国志演義」の「赤壁の戦い」のモデルになったといわれます。正史では赤壁の戦いの様子はよくわかっていません。そこで作者は「鄱陽湖の戦い」を参考に作ったといわれます。
呉王を名乗る
至正24年(1364年)正月。朱元璋は「呉王」を名乗りました。
形の上では大宋皇帝 韓林児の下にいますが、朱元璋は王を名乗り独立しました。
李善長を右丞相国、徐達を左丞相国、常遇春と俞通海を平章政事とし、息子の朱標を世子にしました。
すでに張士誠が呉王を名乗っていたので呉王が二人いることになります。
以下、朱元璋の呉国を朱呉。張士誠の呉国を張呉と呼びます。
2月。朱元璋は漢の残党が逃げ込んだ武昌を攻めました。陳友諒の息子・陳理は降伏。朱元璋は陳理に帰徳侯の爵位を与え臣下にしました。陳友諒が作った漢は4年で滅亡しました。
その後、朱呉軍は廬州、吉安、衡州、寶慶、贛州、浦城、襄陽を攻略しました。
張士誠との戦い
呉王 張士誠の支配する長江流域は農作物が豊富で塩の生産も盛んです。張士誠はただ贅沢をしているだけで何の展望もありませんでしたが。経済活動は自由だったので多くの商人や文化人が集まっていました。
朱元璋の朱呉国は経済はぎりぎりだったので徹底した管理統制を行っていました。朱元璋にとっても豊かな江南の地域を手に入れるのは大きなメリットがあります。
至正25年(1365年)。呉王 朱元璋は徐達たちに張呉の北部を攻撃させました。淮東地域のほとんどを朱呉国のものにします。
至正26年(1366年)。朱元璋は再び徐達、李文忠たちに張呉を攻めさせました。
このとき朱元璋は張士誠の八罪を読み上げ。張士誠は元朝に逆らう謀反人だと罵りました。
朱元璋も紅巾軍の一員で元朝に歯向かっているのですが。このときだけは元を正当な王朝と認め朱元璋は正義面しました。こうしたご都合主義が通用するのも中国らしいところです。
それができるのも、もはや華南には朱元璋に勝てる勢力はなく、小明王を担ぐ必要がなくなったからです。
朱呉軍は湖州、杭州を攻略後、11月に徐達が張呉の本拠地・蘇州を攻めました。
張士誠は籠城して耐えますが。至正27年(1367年)6月。最後は最後の突撃にも敗れて一族とともに自害しようとしました。張士誠は突入した朱呉軍に救われ護送されましたが、警護の者が目を話している隙に自害しました。
張呉国はわずか4年で滅亡しました。
朱元璋は江南を統一したのです。
紅巾軍との決別
朱呉軍が張士誠を攻めた時、八罪をよみあげましたがその中で「紅巾軍は妖賊」と罵っていました。
朱元璋には多くの儒学者が集まり、儒教をもとにした国作りが始まっています。劉基たち儒学者の強い働きかけがあったはずです。八罪の文面を考えたのも儒学者たち。
白蓮教や弥勒教は世直しをかかげる宗教、どうしても反体制的になりがちです。庶民には魅力でも権力者にとっては厄介な集団でした。逆に儒教は権力を正当化する教えです。漢朝以来、漢人は儒教なしの国造りは考えられなくなっていました。
朱元璋は白蓮教の教えに共感したことはあったかも知れませんが、それをもとに国のしくみを設計できるほどの頭はありません。朱元璋が皇帝になろうと思えば儒学者を味方にするしかないのです。
小明王 韓林児を抹殺
至正26年(1366年)。朱元璋は廖永忠に韓林児を迎えに行きかせました。
廖永忠は応天に迎えると騙して韓林児を誘い出し瓜步の渡し場で韓林児が乗っていた船を沈没させ韓林児を溺死させました。もちろん朱元璋の命令です。
廖永忠は朱元璋のもとに戻ると嵐で船が沈没したと報告。事故死として処理されました。その10年後。廖永忠は朱元璋から韓林児への裏切りを攻められ処刑されています。
朱元璋はそれまで使っていた「龍鳳」の年号を捨て。すでに応天では城と宗廟の建設が始まっていました。朱元璋の皇帝即位計画は動き出していました。
南征北伐
華南にはまだいくつかの勢力が残っていましたが。いずれも小さく朱元璋の敵ではありません。いよいよ、かつて大宋ができなかった元朝を討つ計画をたてました。
常遇春は直接元の都・大都を攻めようという意見も出ましたが。朱元璋はまずは周辺地域を占領して大都を孤立させた後に攻めることにしました。
呉元年(1367年)。朱元璋は湯和を南征将軍に任命。浙東の方国珍を攻めさせました。
徐達を征虜大将軍、常遇春を副将軍に任命。25五万の軍で元を攻めるよう命じました。
胡廷瑞を南征将軍、何文輝を副将軍に任命して福建を攻撃するように命じました。
同年、方国珍が降伏。徐達が山東の济南を攻略。胡廷瑞が邵武を攻略。湯和と廖永忠が海路で福建の福州を攻略しました。
北伐は洪武年間まで続き、徐達と常遇春はその後、河南と山西全域を攻略し、最終的には元の大都(現在の北京)に直接攻め入ります。
明の建国
遠征軍が戦っている間。朱元璋は応天で新帝国作りの準備に追われていました。新しい制度や組織を作り、施設の建設が進められました。
そして呉2年(1368年)正月4日。朱元璋は応天で皇帝に即位。国号を「明」、元号を「洪武」と決めました。
元以前の王朝は皇帝に縁のある地名や爵位から付けられていました。なので慣例でいくと朱元璋の新帝国は「呉」になってもおかしくはありません。
ところがモンゴルは地名とは関係のない「天」意味する「元」という言葉を国号にしていました。
朱元璋はモンゴルの「元」に対抗したのか「明」を採用しました。「天」に対して「太陽・光」を意味する「明」です。朱元璋がかつて所属した紅巾軍の首領は「明王」です。明王はこの世に光をもたらす救世主の意味。朱元璋は組織としての紅巾軍は否定したものの、やはり白蓮教の教えには魅力を感じた部分もあったのでしょう。
儒学者むけには五行説で南を意味する「朱明」からという説明もしたかもしれません、朱家の「朱」も入っているしちょうどいいと思ったかも知れません。でもそれでは元に対してスケールが小さい。やはり朱元璋ならモンゴルを駆逐して中華の光・救世主になりたいでしょうから明王の明でしょう。
戦いはまだ続いていましたが。朱元璋は皇帝になり。明は建国されました。
でも支配しているのは華南の地。様々な勢力が争う中で勝ち残り、元朝への挑戦権を得たに過ぎません。そしていよいよ元との全面戦争に突入します。
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